、着物を着換えることもできなかったのよ。大変な服装《なり》をしてるでしょう。しわくちゃな襟飾《えりかざ》りをしてるところをごらんなすって、お家の方は何とおっしゃるでしょうね。さあ、あなたも少し話してちょうだい。私にばかり口をきかしていらっしゃるのね。私たちはずっとオンム・アルメ街にいたのよ。あなたの肩の傷はさぞひどかったんでしょうね。手がはいるくらいだったそうですってね。それに鋏《はさみ》で肉を切り取ったんですってね。ほんとに恐ろしい。私は泣いてばかりいたので、目を悪くしてしまったの。どうしてあんなに苦しんだかと思うとおかしいほどよ。お祖父様《じいさま》は御親切そうな方ね。静かにしていらっしゃいな、肱で起き上がってはいけないわ。用心なさらないと、障《さわ》るでしょう。ああ私ほんとに仕合わせだこと! 悪いことももう済んでしまったのね。私どうかしたのかしら。いろんなことをお話したいと思ったのに、すっかり忘れてしまった。やっぱりあなたは私を愛して下さるの? 私たちはオンム・アルメ街に住んでるのよ。庭はないの。私はいつも綿撒糸《めんざんし》ばかりこしらえていたわ。ねえあなた、ごらんなさい、指に胼胝《たこ》ができてしまったわ。あなたが悪いのよ。」マリユスは言った。「おお天使よ!」
 天使[#「天使」に傍点]という言葉こそ、使い古すことのできない唯一のものである。他の言葉はみな、恋人らの無茶な使用にはたえ得ない。
 それから、あたりに人がいるので、ふたりは口をつぐんでもう一言も言わず、ただやさしく手を握り合ってるばかりだった。
 ジルノルマン氏は室《へや》の中にいる人々の方へ向いて声高に言った。
「みんな声を高くして話すんだ。楽屋の方で音を立てるんだ。さあ、子供ふたりで勝手にしゃべくるように、少し騒ぐがいい。」
 そして彼はマリユスとコゼットに近寄って、ごく低く言った。
「うちとけて親しむがいい。遠慮するにはおよばない。」
 ジルノルマン伯母《おば》は、古ぼけた家庭にかく突然光がさし込んできたのを惘然《ぼうぜん》としてながめていた。惘然さのうちには何らの悪意もなかった。それは二羽の山鳩《やまばと》に対する梟《ふくろう》の憤った妬《ねた》ましい目つきでは少しもなかった。五十七歳の罪のない老女の唖然《あぜん》たる目つきであり、愛の勝利をながめてる空《むな》しい生命だった。
「どうだ
前へ 次へ
全309ページ中181ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング