どうか結婚してくれ。かわいいお前のことだもの、幸福になってくれ。」
そう言って、老人は涙にむせんだ。
彼はマリユスの頭を取り、それを年老いた胸に両腕で抱きしめた。そしてふたりとも泣き出した。泣くのは最上の幸福の一つの形である。
「お父さん!」とマリユスが叫んだ。
「ああ、ではわしを愛してくれるか?」と老人は言った。
それは名状し難い瞬間だった。ふたりは息をつまらして、口をきくこともできなかった。やがて老人はつぶやいた。
「さあ、これで口もあけた。わしをお父さんと言ってくれた。」
マリユスは祖父の腕から頭をはずして、静かに言った。
「ですがお父さん、もう私は丈夫になっていますから、彼女に会ってもよさそうに思います。」
「それも承知してる。明日《あす》会わしてやろう。」
「お父さん!」
「何かね。」
「なぜ今日はいけないんです。」
「では今日、そう今日にしよう。お前は三度お父さんと言ったね、それに免じて許してやろう。わしが引き受ける。お前のそばへ連れてこさせよう。こうなるだろうと思っていた。ちゃんと詩にもなってる。アンドレ・シェニエの病める若者[#「病める若者」に傍点]という悲歌の末句だ。九十三年の悪……大人物どもから斬首《ざんしゅ》されたアンドレ・シェニエのね。」
ジルノルマン氏はマリユスがちょっと眉《まゆ》をしかめたように思った。しかしあえて言っておくが、マリユスはまったく歓喜のうちに包まれ、一七九三年のことなんかよりもコゼットのことを多く考えていて、老人の言葉に耳を傾けていなかった。けれども祖父は、折り悪しくアンドレ・シェニエを口にして自ら震え上がり、急いで弁解を始めた。
「斬首《ざんしゅ》というのは適当でない。事実を言えば、革命の偉人たちは、確かに悪人ではなく英雄であったが、アンドレ・シェニエを少し邪魔にして、彼を断頭……すなわち、その英傑たちは、共和熱月七日([#ここから割り注]一七九四年七月二十五日[#ここで割り注終わり])、公衆の安寧のために、アンドレ・シェニエに願って……。」
ジルノルマン氏は自分の言おうとする言葉に喉《のど》をしめつけられて、あとを続けることができなかった。言い終えることも言い直すこともできず、娘がマリユスのうしろで枕を直してる間に、激情に心転倒して、老年の足が許す限りの早さで、寝室の外に飛び出し、うしろに扉《とびら》を押し
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