三 マリユス攻勢を取る

 ある日ジルノルマン氏は、戸棚の大理石板の上に壜《びん》やコップを娘が片づけてる時、マリユスの上に身をかがめて、最もやさしい調子で彼に言った。
「ねえマリユス、わしがもしお前だったら、もう魚《さかな》より肉の方を食べるがね。比目魚《ひらめ》のフライも回復期のはじめには結構だが、病人が立って歩けるようになるには、上等の脇肉《わきにく》を食べるに限るよ。」
 マリユスはもうほとんど体力をすべて回復していたが、更にその力を集中して、そこに半身を起こし、握りしめた両の拳《こぶし》を敷き布の上につき、祖父の顔をまともにじっとながめ、恐ろしい様子をして言った。
「そうおっしゃれば一つ申したいことがあります。」
「何かね?」
「私は結婚したいのです。」
「そんなことなら前からわかっている。」と祖父は言った。そして笑い出した。
「何ですって、わかっていますって?」
「うむ、わかっているよ。あの娘をもらうがいい。」
 マリユスはその一言に惘然《ぼうぜん》として眩惑《げんわく》し、手足を震わした。
 ジルノルマン氏は続けて言った。
「そうだ、あのきれいなかわいい娘をもらうがいい。あの娘は毎日、老人を代わりによこしてお前の様子を尋ねさしている。お前が負傷してからというもの、いつも泣きながら綿撒糸《めんざんし》をこしらえてばかりいる。わしはよく知ってる。オンム・アルメ街七番地に今住んでいる。ああいいとも。好きならもらうがいい。お前はすっかりはまり込んでいるな。お前はつまらない計画を立てて、こう考えたんだろう。『あの祖父《じじい》に、あの摂政時代と執政内閣時代との木乃伊《みいら》に、あの古めかしい洒落者《しゃれもの》に、あのゼロントとなったドラントに([#ここから割り注]訳者注 共にモリエールの戯曲中の人物にて、ゼロントは欺かれやすい愚かな好々爺、ドラントはばかげた気取りや[#ここで割り注終わり])、きっぱりと思い知らしてやろう。彼だって昔は、おもしろいことをやって、情婦《いろおんな》をこしらえ、小娘をひっかけ、幾人ものコゼットを持っていたんだ。お化粧をし、翼をつけ、春のパンを食ったことがあるんだ。昔のことを少し思い出さしてやらなけりゃいけない。どうなるかみてるがいい。戦争だ。』そう思ってお前は甲虫《かぶとむし》の角をつかまえたわけだな。いい考えだ。そこ
前へ 次へ
全309ページ中176ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング