《のどぼとけ》の所まで引き上げた。それは真剣になった様子を充分に示す身振りだった。そして言った。
「だが、つまりお前のやり方は悧巧《りこう》だったかも知れねえ。職人が明日穴でもふさぎに来れば、そこに死人が捨てられてるのをきっと見つける。そうすりゃあ、それからそれと糸をたぐって跡をかぎつけ、お前の身におよんでくる。下水道の中を通った奴《やつ》がいる。それはだれだ、どこから出たんだ、出るのを見た者があるか? なんて警察はなかなか抜け目がねえからな。下水道は裏切って、お前を密告する。死人なんていう拾い物は珍しいし、人の目をひく。だから下水道を仕事に使う奴はあまりいねえ。ところが川とくりゃあ、だれでも使ってる。川はまったく墓場だからな。一月もたってから、サン・クルーの網に死体がひっかかる。そうなりゃあかまったこたあねえ。身体は腐ってらあ。だれがこの男を殺したか、パリーが殺したんだ、てなことになる。警察だってろくに調べやしねえ。つまりお前は上手にやったわけだ。」
テナルディエがしゃべればしゃべるほど、ジャン・ヴァルジャンはますます黙り込んだ。テナルディエはまた彼の肩を押し動かした。
「さあ用事をすまそう。二つに分けるんだ。お前は俺《おれ》の鍵《かぎ》を見たんだから、俺にも一つお前の金を見せなよ。」
テナルディエは荒々しく、獰猛《どうもう》で、胸に一物あるらしく、多少|威嚇《いかく》するようなふうだったが、それでもごくなれなれしそうだった。
不思議なことが一つあった。テナルディエの態度は単純ではなかった。まったく落ち着いてるような様子はなかった。平気なふうを装いながら、声を低めていた。時々口に指をあてては、しッ! とつぶやいた。その理由はどうも察し難かった。そこには彼らふたりのほかだれもいなかった。おそらく他に悪党どもがどこかあまり遠くない片すみに潜んでいて、テナルディエはそれらと仕事を分かちたくないと思ってるのだと、ジャン・ヴァルジャンは考えた。
テナルディエは言った。
「話を片づけてしまおう。そいつは懐中にいくら持っていたんだ?」
ジャン・ヴァルジャンは身体中方々さがした。
読者の記憶するとおり、いつも金を身につけてるのは彼の習慣だった。臨機の策を講じなければならない陰惨な生活に定められてる彼は、金を用意しておくのを常則としていた。ところがこんどに限って無一物だ
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