」
ジャン・ヴァルジャンは、老コルネイユの用語を借りれば、「唖然《あぜん》とした。」そして眼前のことが果たして現実であるかを疑ったほどである。それは恐ろしい姿で現われてくる天意であり、テナルディエの形となって地から出て来る善良な天使であった。
テナルディエは上衣の下に隠されてる大きなポケットに手をつき込み、一筋の綱を取り出して、それをジャン・ヴァルジャンに差し出した。
「さあ、」と彼は言った、「おまけにこの綱もつけてやらあな。」
「綱を何にするんだ。」
「石もいるだろうが、それは外にある。こわれ物がいっぱい積んであるんだ。」
「石を何にするんだ。」
「ばかだな。お前はそいつを川に投げ込むつもりだろう。すりゃあ石と綱とがいるじゃねえか。そうしなけりゃ水に浮いちまわあな。」
ジャン・ヴァルジャンはその綱を取った。だれにでも、そういうふうにただ機械的に物を受け取ることがある。
テナルディエは突然ある考えが浮かんだかのように指を鳴らした。
「ところで、お前はどうして向こうの泥孔《どろあな》を越してきたんだ。俺《おれ》にはとてもできねえ。ぷー、あまりいいにおいじゃねえな。」
ちょっと黙った後、彼はまた言い出した。
「俺がいろんなことを聞いてるのに、お前が一向返事もしねえのはもっともだ。予審のいやな十五、六分間の下稽古だからな。それに、口をききさえしなけりゃあ、あまり大きな声を出しゃしねえかという心配もねえわけだからな。だがどっちみち同じことだ。お前の顔もよく見えねえし、お前の名も知らねえからといって、お前がどんな人間でどんなことをするつもりか、俺にわからねえと思っちゃまちがえだぜ。よくわかってらあね。お前はその男をばらして、今どこかに押し込むつもりだろう。お前には川がいるんだ。川ってものはばかなことをすっかり隠してしまうものだからな。困るなら俺が救ってやらあ。正直者の難儀を助けるなあ、ちょうど俺のはまり役だ。」
ジャン・ヴァルジャンが黙ってるのを彼は一方に承認しながらも、明らかに口をきかせようとつとめていた。彼は横顔でも見ようとするように、相手の肩を押した。そしてやはり中声をしたまま叫んだ。
「泥孔と言やあ、お前はどうかしてるね。なぜあそこにほうり込んでこなかったんだ?」
ジャン・ヴァルジャンは黙っていた。
テナルディエは襟飾《えりかざ》りとしてるぼろ布を喉仏
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