には「かねて手を入れておいた」一個連隊が裏切ってくる、正午にはパリー全市が立ち上がる、日没の頃には革命となる。
サン・メーリーの警鐘が前日絶えず鳴り続けてるのが聞こえていた。それは、も一つの大きな防寨《ぼうさい》、すなわちジャンヌの防寨が、なお支持してる証拠であった。
それらの希望は、蜂《はち》の巣における戦いの騒音のように、一種の快活なまた恐ろしいささやきとなって、人々の群れから群れへとかわされていた。
アンジョーラは再び姿を現わした。彼は外部の暗黒の中をひそかに鷲《わし》のように翔《かけ》り回って戻ってきたのである。彼はしばし、両腕を組み片手を口にあてて、人々の喜ばしい話を聞いていた。それから、しだいに白んでゆく曙《あけぼの》の色の中にいきいきした薔薇《ばら》のような姿で言った。
「パリーの全兵士が動員している、その三分の一はこの防寨《ぼうさい》に押し寄せてくるんだ。その上国民兵も加わっている。僕は歩兵第五連隊の帽子と国民兵第六連隊の旗とを見て取った。攻撃までには一時間ばかりの余裕しかない。人民の方は、昨日は沸き立っていたが、今朝は静まり返っている。今はもう待つべきものも希望すべきものもない。郭外も連隊も共にだめだ。われわれは孤立だ。」
その言葉は、人々の騒々しい話声の上に落ちかかって、蜂《はち》の巣の上に落ちてくる暴風雨の最初の一滴のような結果を生じた。皆口をつぐんでしまった。死の翔り回るのが聞こえるような名状し難い沈黙が、一瞬間続いた。
それはごくわずかの間だった。
群集の最も薄暗い奥の方から、一つの声がアンジョーラに叫んだ。
「よろしい。防寨を二丈の高さにして皆で死守しよう。諸君、死屍《しかばね》となっても抵抗しようではないか。人民は共和党を見捨てるとしても、共和党は人民を見捨てないことを、示してやろうではないか。」
その言葉は、すべての者の頭から個人的な心痛の暗雲を払い去った。そして熱誠な拍手をもって迎えられた。
右の言葉を発した男の名前は永久に知られなかった。それはある労働服を着た無名の男であり、見知らぬ男であり、忘れられた男であり、過ぎ去ってゆく英雄であった。かかる無名の偉人は、常に人類の危機と社会の開闢《かいびゃく》とに交じっていて、一定の時機におよんで断乎《だんこ》として決定的な一言を発し、電光のひらめきのうちに一瞬間民衆と神とを
前へ
次へ
全309ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング