って傾斜をおりてゆけば、十五分とかからないうちに、ポン・トー・シャンジュとポン・ヌーフとの間のセーヌ川のどの出口かに達するだろう。すなわちパリーの最も繁華な所にま昼間身をさらすことになる。おそらく四つ辻《つじ》の人だかりに出っくわすだろう。血に染まった二人の男が足下の地面から出てくるのを見ると通行人の驚きはどんなだろう。巡査がやってき、近くの衛兵らが武器を取ってやってくる。地上に出るか出ないうちに取り押さえられる。それよりもむしろ、この迷宮の中にはいり込み、暗黒に身を託し、天運のままに出口を求めた方が上策である。
 で彼は傾斜の上の方へと右に曲がった。
 隧道《すいどう》の角《かど》を曲がると、穴の口からさしていた遠い光は消えてしまい、暗黒の幕が再びたれてきて、彼はまた目が見えなくなった。それでも彼は前進をやめずに、できるだけ早く進んだ。マリユスの両腕は彼の首のまわりにからみ、両足は背後にたれていた。その両腕を彼は一方の手で押さえ、他の手で壁を伝った。マリユスの頬《ほお》は彼の頬に接し、血のためにそのままこびりついた。彼はマリユスの生温《なまあたたか》い血が自分の上に流れかかって、服の下までしみ通るのを覚えた。けれども、負傷者の口元に接している耳に湿気のある温味が感ぜられるのは、呼吸のしるしで、従ってまた生命のしるしだった。今や彼がたどっている隧道は、初めのより広くなっていた。彼はかなり骨を折ってそれを歩いていった。前日の雨水はまだまったく流れ去っていず、底の中ほどに小さな急流を作っていたので、彼は水の中に足をふみ入れないようにするため、壁に身を寄せて行かなければならなかった。そういうふうにして彼はひそかに足を運んだ。あたかも見えない中を手探りして地下の闇《やみ》の脈の中に没してゆく夜の生物のようだった。
 けれども、あるいは遠い穴からわずかの明りがその不透明な靄《もや》の中に漂ってるのか、あるいは目が暗闇になれてくるのか、少しずつぼんやりした影が見え、手で伝ってる壁や頭の上の丸天井などが漠然《ばくぜん》とわかってきた。魂が不幸のうちに拡大してついにそこに神を見いだすに至ると同じように、瞳孔《どうこう》は暗夜のうちに拡大してついにはそこに明るみを見いだすに至るものである。
 行く手を定めることは困難であった。
 下水道の線は、上に重なってる街路の線を言わば写し出して
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