きた口からさしていたし、また目もその窖《あなぐら》の中になれてきた。物の形がぼんやり見え出してきた。彼がもぐり込んできたとしか言いようのないその隧道《すいどう》は、後ろを壁でふさがれていた。それは専門語で分枝と言わるる行き止まりの一つだった。また彼の前にも他の壁が、暗夜の壁があった。穴の口からさしてくる光は、前方十一、二歩の所でなくなってしまい、下水道の湿った壁をようやく数メートルだけほの白く浮き出さしていた。その向こうは厚い闇《やみ》だった。そこにはいってゆくことはいかにも恐ろしく、一度はいったらそのままのみ尽されそうに思われた。けれどもその靄《もや》の壁の中につき入ることは不可能ではなく、また是非ともそうしなければならなかった。しかも急いでしなければならなかった。ジャン・ヴァルジャンは、自分が舗石《しきいし》の下に見つけた鉄格子《てつごうし》は、また兵士らの目にもつくかも知れないと思った。すべてはその偶然の機会にかかっていると思った。兵士らもまたその井戸の中におりてきて、彼をさがすかも知れなかった。一分間も猶予してはおれなかった。彼はマリユスを地面におろしていたが、それをまた拾い上げた、というのも実際のありさまを示す言葉である。そして彼はマリユスを肩にかつぎ、前方に歩き出した。彼は決然として暗黒の中にはいって行った。
 しかし実際においてふたりは、ジャン・ヴァルジャンが思っていたほど安全になったのではなかった。種類は違うがやはり同じく大なる危険が、彼らを待ち受けていた。戦闘の激しい旋風の後に毒気と陥穽《かんせい》との洞窟《どうくつ》がきたのである。混戦の後に汚水溝渠《おすいこうきょ》がきたのである。ジャン・ヴァルジャンは地獄の一つの世界から他の世界へ陥ったのである。
 五十歩ばかり進んだ時、彼は立ち止まらなければならなかった。問題が一つ起こった。隧道《すいどう》は斜めにも一つの隧道に続いていた。二つの道が開いていた。いずれの道を取るべきか、左へ曲がるべきか右へ曲がるべきか。その暗い迷宮の中でどうして方向を定められよう。しかし前に注意しておいたとおり、その迷宮には一つの手がかりがある。すなわちその傾斜である。傾斜に従っておりてゆけば川に出られる。
 ジャン・ヴァルジャンは即座にそれを了解した。
 彼は考えた。たぶんここは市場町の下水道に違いない。それで、道を左に取
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