、多くはごく臭い開鑿《かいさく》をやり支柱を施して、オピタル大通りからセーヌ川までビエーヴルの穹窿《きゅうりゅう》を作り、更に、モンマルトルの溢水《いっすい》からパリーを救い、マルティール市門の近くに停滞してる九町歩余の濁水に出口を与えるために働き、更に、四カ月間昼夜の別なく十一メートルの深さの所で働いて、ブランシュ市門からオーベルヴィリエの道に至る一条の下水道を作り、更に、未聞のことではあったが、塹壕もなくまったく地中で、バール・デュ・ベク街の下水道を地下六メートルの所に穿《うが》った後に、監督のモンノーは死亡した。また、トラヴェルシエール・サン・タントアーヌ街からルールシーヌ街に至るまで市中の各地点に、三千メートルにおよぶ下水道の穹窿を作り、更に、アルバレートの支脈を作って、サンシエ・ムーフタール四つ辻《つじ》に雨水の氾濫《はんらん》するのを防ぎ、更に、流砂の中に石とコンクリートとの土台を作って、その上にサン・ジョルジュの下水道を設け、更に、ノートル・ダーム・ド・ナザレの支脈の底を下げるという恐るべき工事を指揮した後に、技師のデュローは死亡した。しかし、戦場の虐殺よりもずっと有益なそれら勇敢な行為については、何らの報告文も作られていない。
 一八三二年におけるパリーの下水道は、今日の状態とは非常な差があった。ブリュヌゾーは一刺戟を与えたが、その後なされた大改造をいよいよ着手さしたのはコレラ病の流行だった。たとえば口にするも驚くべきことではあるが、一八二一年には、大運河と言わるる囲繞溝渠《いじょうこうきょ》の一部が、ちょうどヴェニスの運河のように、グールド街に裸のまま蟠《わだかま》っていた。その醜悪の蓋《ふた》をするに要した二十六万六千八十フラン六サンチームの金を、パリー市が調達し得たのは、ようやく一八二三年のことである。コンバとキュネットとサン・マンデとの三つの吸入井戸を、その出口と種々の装置とたまりと清浄用の分脈とをつけて完成したのは、わずかに一八三六年のことである。それからしだいにパリーの腹中の溝渠は新しく作り直され、また前に言ったとおり、最近四半世紀ばかりの間に十倍以上の長さとなった。
 今から三十年前、すなわち一八三二年六月五日六日の反乱のおりには、下水道の大部分はほとんど昔のままだった。大多数の街路は、今日では中高となっているが、当時は中低の道にすぎな
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