り返った家の中では、人が行ききし起臥《きが》している。家庭をなしている。飲みまた食っている。ただ恐ろしいことには、戦々|兢々《きょうきょう》としている。その恐怖の念は、反徒らに対するひどい冷淡さを宥恕《ゆうじょ》するものである。また酌量すべき情況としては狼狽の念もいっしょにある。時としては、そして実際あったことであるが、恐怖は熱情となることもある。慎重が憤激に変わり得るように、恐怖は狂猛に変わり得る。そこから、温和派の熱狂者[#「温和派の熱狂者」に傍点]という意味深い言葉が生じてくる。極度におびえた感情は炎となって、そこからすごい煙のような憤怒の情が生じてくる。「彼ら反徒どもは何を望んでいるのか? 彼らはかつて満足ということを知らない。彼らは平穏な人々にまで累を及ぼそうとしている。これでもまだ革命が足りないとでも思っているのか。ここに何をしに来たのか。勝手に何でもするがいい。終わりはどうせきまっている。自業自得だ。なるようになるだろうさ。われわれの知ったことではない。この街路もかわいそうに一面に弾傷を受けるのか。全く無頼漢どもの寄り合いだ。まず第一に戸を開かないことだ。」かくして人家は、墓のようなありさまになる。反徒はその戸の前で、死の苦しみを受ける。霰弾《さんだん》と抜き身のサーベルとが近づいてくるのを見る。叫んだところで、聞いてる者はあるが助けにきてくれる者はないのがわかっている。そこには他を庇護《ひご》し得る壁もあり、彼らを救い得る人もいる。しかも、壁には聞く耳があるけれども、人には石のような心しかない。
 だれを咎《とが》むるべきであるか?
 何人《なんぴと》をも、そしてまたすべての人を。
 吾人が属するこの不完全な時代を。
 高遠なる理想が、自ら反乱と変化し、哲理上の抗議を武装上の抗議となし、ミネルヴァをパラスとするのは([#ここから割り注]訳者注 ミネルヴァというは詩の神としての名称であり、パラスというは戦の神としての名称であって、同一の女神である[#ここで割り注終わり])、常に自己を危険にさらしてのことである。忍耐しきれずに暴動となる理想は、いかなる目に会うかを自らよく知っている。多くは時機が早すぎるものである。それで自ら運命に忍従して、勝利の代わりに破滅を勇ましく甘受する。拒絶を浴びせる者らを恨むことなく、かえって彼らを弁護しながら彼らに奉仕する。寛
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