」しかしそれは、父も母もなくパンも着物も住居もない一少年を、寒気や霜や霰《あられ》や雨などから救い、冬の朔風《きたかぜ》からまもり、熱を起こさせる泥中《でいちゅう》の睡眠から防ぎ、死を招く雪中の睡眠から防ぐの用に立った。社会から拒まれた罪なき者を収容するの用に立った。公衆の罪過を減ずるの用に立った。それはすべての扉《とびら》からしめ出された者に向かって開かれた洞窟《どうくつ》であった。虫に食われ世に忘れられ、疣《いぼ》や黴《かび》や吹き出物などが一面に生じ、よろめき、腐蝕され、見捨てられ、永久に救われない、そのみじめな年老いた巨獣、四つ辻《つじ》のまんなかに立って好意の一瞥《いちべつ》をいたずらに求めてるその一種の巨大なる乞食《こじき》は、これもひとりの乞食、足には靴《くつ》もなく、頭の上には屋根もなく、凍えた指に息を吐きかけ、ぼろをまとい、人の投げ与える物で飢えをしのいでるあわれな小人に、憐愍《れんびん》の情を寄せてるかのようだった。バスティーユの象はそういう役に立ったのである。ナポレオンのその考案は、人間に軽蔑されたが、神によって受け入れられた。単に有名にすぎなかった物も、尊厳の趣を得るにいたった。皇帝にとっては、その考案したところを実現せんがためには、雲斑石《うんぱんせき》や青銅や鉄や金や大理石などが必要だったろうけれども、神にとっては、板と角材と漆喰《しっくい》との古い構造で足りたのである。皇帝は天才的夢想をいだいていた。鼻を立て、塔を負い、勇ましい生命の水を四方に噴出する、この武装せる驚くばかりの巨大なる象のうちに、民衆を具現せんと欲した。しかし神はそれをいっそう偉大なるものたらしめた、すなわちその中にひとりの少年を住まわしたのである。
ガヴローシュがはいり込んだ入り口の穴は、前に言ったとおり象の腹の下に隠れていて、その上|猫《ねこ》か子供のほかは通れないくらいに狭かったので、外からはほとんど見えなかった。
「まず初めに、」とガヴローシュは言った、「皆不在だと門番に言っておこう。」
そしてよく案内を知った自分の部屋にでもはいるように平気で暗闇《くらやみ》の中を進んでいって、一枚の板を取り、それで入り口の穴をふさいだ。
ガヴローシュはまた闇の中にはいり込んだ。ふたりの子供は、燐《りん》の壜《びん》の中に差し込んだ付け木に火をつける音を聞いた。化学的のマッチはまだできていなかった。フュマードの発火器も当時では進歩した方のものだった。
突然光がきたので、子供らは目をまたたいた。ガヴローシュは樹脂の中に浸した麻糸でいわゆる窖《あなぐら》の鼠なるものの端に火をつけたのだった。光よりもむしろ煙の方を多く出すその窖の鼠は、象の内部をぼんやり明るくなした。
ガヴローシュのふたりの客人は、まわりをながめて、一種異様な感に打たれた。ハイデルベルヒ城の大|樽《たる》の中に閉じこめられでもしたような心地であり、またなおよく言えば、聖書にある鯨の腹の中にはいったというヨナが感じでもしたような心地だった。巨大な骸骨《がいこつ》が彼らの目に見えてきて、彼らを丸のみにしていた。上には、穹窿形《きゅうりゅうけい》の大きな肋骨材《ろっこつざい》が所々に出ている薄黒い長い梁《はり》が一本あって、肋骨をそなえた背骨のありさまを呈し、多くの漆喰《しっくい》の乳房が内臓のようにそこから下がっており、一面に張りつめた広い蜘蛛《くも》の巣は、塵《ちり》をかぶった横隔膜のようだった。方々のすみには黒ずんだ大きな汚点が見えていて、ちょうど生きてるようで、にわかに騒ぎ立って早く動き回った。
象の背中から落ちた破片は、腹部の凹所《おうしょ》を満たしていたので、歩いてもちょうど床《ゆか》の上のような具合だった。
小さい方は兄に身を寄せて、半ば口の中で言った。
「暗いんだね。」
その言葉はガヴローシュの激語を招いた。ふたりの子供の狼狽《ろうばい》してる様子を見ると、少し押っかぶせてやる必要があった。
「何をぐずぐずぬかすんだ?」と彼は叫んだ。「おかしいというのか。いやだと言うのか。お前らはテュイルリーの御殿にでも行きてえのか。ばかになりてえのか。言ってみろ。覚えておれ、俺《おれ》はたわけ者じゃねえんだぞ。お前らはいったい、法皇の小姓みてえな奴《やつ》なのか。」
少し手荒い言葉もこわがってる時には効果がある。それは心を落ち着かせる。ふたりの子供はガヴローシュの方へ近寄っていった。
ガヴローシュはその信頼の様子に年長者らしく心を動かされて、「厳父から慈母に」変わり、年下の方に言葉をかけてやった。
「ばかだな。」と彼は甘やかすような調子に小言《こごと》を包んで言った。「暗いのは外だぜ。外には雨が降ってるが、ここには降っていない。外は寒いが、ここには少しの風もない
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