調を写すのはいやなことであるから。)
沈思の癖があり夜の散歩を好んでいたジャン・ヴァルジャンは、夜遅くしか帰ってこないこともしばしばあった。
「トゥーサンや、」とコゼットは言った、「晩にはせめて庭の方の雨戸には閂をさしてよく締まりをしておいたでしょうね、そして締まりの鉄の輪にはよく釘《くぎ》をさして。」
「ええ御安心なさいませ、お嬢様。」
トゥーサンはいつもそれを怠りはしなかった。コゼットもそれはよく知っていた。しかし彼女はなおつけ加えて言わざるを得なかった。
「こちらはほんとに寂しいからね。」
「寂しいと申せば本当にそうでございますよ。」とトゥーサンは言った。「殺されても声さえ立てる暇がないかも知れません。その上|旦那様《だんなさま》もこちらにはおやすみになりませんし。でもお嬢様、御心配なさいますな、窓は皆|牢屋《ろうや》のように固くしめておきますから。女ばかりですもの、恐《こわ》いのはあたりまえでございますよ。まあ考えてもごらんなさいませ、大勢の男が室《へや》にはいってきて、静かにしろなんかと言って、お嬢様の首に切りつけでもしましたら! 死ぬのは何でもありません、死ぬのはかまいません、どうせ一度は死ぬ身でございますもの。でもそんな男どもがお嬢様に手をつけるのは考えてもたまらないことでございます。それに刃物、それもきっとよく切れないものにきまっています。ああほんとに!」
「もういいよ。」とコゼットは言った。「どこもよく締まりをしてちょうだい。」
コゼットはトゥーサンが即座に組み立てた惨劇の一幕に脅かされ、またおそらく先週に見た幻を思い浮かべたりして、「腰掛けの上にだれかが置いた石をまあ見てきてごらん」とも言うことができなかった。庭の戸口を開けたら「男共」がはいって来るかもしれないような気がした。彼女は方々の戸や窓をよくしめさせ、窖《あなぐら》から屋根裏の部屋まで家中をトゥーサンに見回らせ、自分の室に閉じこもり、扉《とびら》にはよく※[#「金+饌のつくり」、第4水準2−91−37]《かけがね》をし、寝台の下までのぞき込んで、それから床についたが、よく眠れなかった。山のように大きくて洞穴《どうけつ》がたくさんある石を、夜通し彼女は夢現《ゆめうつつ》に見続けた。
日の出に――日の出の特質は夜間の恐怖をことごとく一笑に付し去らせることにある、そしてその笑いは常に夜の恐怖の大きさに正比例するものである――日の出に、コゼットは目をさまして、前夜の恐怖を夢のように思いながら自ら言った。「何を私は考えたのだろう。先週の晩庭で聞いたと思ったあの足音のようなものだろう。暖炉の煙筒の影のようなものだろう。私は今ばかげた臆病者《おくびょうもの》になりかけたのだろうか。」雨戸のすき間を緋色《ひいろ》に染めてダマ織りの帷《とばり》をまっかに浮き出さした日の光は、彼女の心をすっかり落ち着かして、頭の中にあったものはすべて、あの石までも、消えうせてしまった。
「庭に丸い帽子の男がいなかったと同じように、腰掛けの上にも石はなかったのだろう。ほかの事と同じように、あの石もただ夢で見ただけに違いない。」
彼女は着物を着、庭におり、腰掛けの所に走って行ったが、ぞっと身に冷や汗を感じた。石はそこにあった。
しかしそれは一瞬間のことだった。夜に恐怖を起こすものも、昼には好奇心を起こすようになる。
「まあ、ちょっと見てやろう。」と彼女は言った。
彼女はかなり大きなその石を持ち上げた。下に手紙のようなものが置いてあった。
それは白い紙の封筒だった。コゼットはそれを取り上げた。表にはあて名も書いてなく、裏には封もしてなかった。けれども開いたままのその封筒は空《から》ではなかった。中に紙がはいってるのが少し見えていた。
コゼットはそれを調べてみた。それはもう恐怖でもなく、好奇心でもなく、心配の初まりだった。
彼女は封筒からその中のものを引き出した。紙をとじた小さな帳面で、各面にはページ数がついていて、数行の文字が認めてあった。ごく細かな字で、かなりみごとな筆跡だとコゼットは思った。
コゼットは名前をさがしたが、どこにもなかった。署名をさがしたがなかった。いったいだれにあてられたものだろうか? 彼女の腰掛けの上に置かれてる所を見ると、おそらく彼女にあてられたものであろう。しかしいったいだれからよこしたものであろうか? 不可抗な魅惑に彼女はとらえられた。自分の手の中に震えてる紙から目をそらそうとして、空を見、街路を見、朝日を浴びてるアカシヤの木を見、隣の屋根の上に飛んでる鳩《はと》を見たが、その視線はすぐ手紙の上に落ちてきた。そして中に何が書いてあるかを見てみなければならないように思った。
彼女が読んだことは次のとおりだった。
四 石の下の心
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