の名前は知らないが自分の心を知っていたこと、そして今いかに秘密な場所に彼女がいようとも、おそらくなお自分を愛していてくれるだろうということ。自分が彼女を思っているように彼女も自分を思っていないとはだれが言えよう。時として、すべて愛する者の心に起こる説明し難いあの瞬間に、悲しみの種しかないにかかわらず、ひそかに喜悦の戦慄《せんりつ》を身に感じて、彼は自ら言った、「これは彼女の思いが私に通じるのだ。」それから彼はつけ加えた、「私の思いもまたおそらく向こうに通じているだろう。」
 そういう幻を彼は自らすぐあとで打ち消しはしたが、それでもついにはそのために、時としては希望に似た一種の光明が心のうちに射《さ》してきた。折にふれて、またことに夢想家らを最も物悲しい思いに沈ませる夕方など、恋のため頭に満ちてくる夢想のうちの最も純潔で人間離れのした理想的なものを、彼は特別な手帳のうちに書き止めた。それを彼は自ら、「彼女に手紙を書く」と称していた。
 しかし、彼の理性が混乱していたと思ってはいけない。実際はそれに反対だった。彼は働く能力を失い、一定の目的に向かって確乎《かっこ》たる歩を運ぶの能力を失ってはいたが、しかし常にも増して明知と厳正とを持っていた。彼はすべて眼前に去来するものを、最も関係の少ない事物や人物をも、一種独特ではあるがしかも落ち着いた現実的な光に照らしてながめていた。一種の正直な意気|銷沈《しょうちん》と清い公平とをもって、すべてのことに正しい批判を下していた。彼の判断力は、ほとんど希望から分離して、超然として高く舞っていた。
 そういう精神状態にあって彼は、何物をも見失わず何物をも見誤らず、各瞬間ごとに、人生と人類と運命との底を見きわめていた。愛と不幸とを受くるに恥じない魂を神より恵まれた者は、たとい苦悶《くもん》のうちにあっても幸いなるかなである。愛と不幸と二重の光に照らしてこの世の事物や人の心を見たことのない者は、何ら真実なるものを見なかったのであると言うべく、何物をも知らないでいると言うべきである。
 愛しかつ悩む魂は崇高なる状態にある。
 とはいえ、一日一日と時は過ぎ、何ら新たなことも起こらなかった。彼にはただ、自分のたどるべき暗い世界が刻々にせばまってゆくように思えた。底なき淵《ふち》の岸が既にはっきりと見えてるような気がした。
「ああ私はその前にも一度
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