ヘ、ヴェール越しの脣《くち》づけにも似たものである。肉感は身を隠しながらそこにやさしい跡を刻む。肉感の前に、心はなお深く愛せんために身を退く。マリユスの追従は、空想にまったく浸されていて、言わば空色に染められたようなものだった。小鳥が天使の方へ高く飛び行く時には、そういう言葉を聞くに違いない。けれどもそれには、生命と、人情と、マリユスのなし得るすべての積極的なこととが含まっていた。それは洞穴《どうけつ》の中で語らるべきものであり、寝所のうちで語らるべきものの序曲だった。叙情的な訴え、歌曲の一節と叙情短詩の交じったもの、鳩《はと》のやさしい飾り言葉、花束に編まれて美妙な天国のかおりを発する精練された欽慕《きんぼ》の言葉、心より心へ伝える得《え》も言えぬさえずりであった。
「おおあなたの美しいこと!」とマリユスはささやいた。「私はあなたを目でながめることができない。ただ心でながめてるだけだ。あなたは美の女神だ。私は自分で自分のことがわからない。あなたの長衣の下に、ちょっと靴《くつ》の先が見えるだけでも、私はもう自分をとり失ってしまう。心の中にあることをあなたが少し見せてくれる時、私にはどんなに美しい光がさすことだろう! あなたはほんとにみごとな言葉を言ってくれる。私には時々あなたが夢のように思えることがある。さあ何とか言っておくれよ。私はそれに耳を傾けて、あなたを賛美する。おおコゼット、何と不思議な心楽しいことだろう。私はまったく気も狂いそうだ。あなたは何という尊い人だろう。私はあなたの足を顕微鏡《むしめがね》で研究し、あなたの魂を望遠鏡《とおめがね》で研究しているんだよ。」
コゼットは答えた。
「私は今朝《けさ》から一時《ひととき》ごとにつのる思いであなたを愛しているのよ。」
こうした対話の中では、問いと答えとはあちこちに飛び移るが、いつもきまって愛の上に落ちてゆくのであった。あたかも自動人形が盤の中心に落ちてゆくがようなものである。
コゼットの全身は、無邪気と率直と透明と白色と純潔と光輝とであった。彼女は澄みきっているとも言えるほどだった。見る人の心に、四月の感じと曙《あけぼの》の感じとを与えるのだった。その目の中には露が宿っていた。彼女は曙の光が凝って女の形となってるものであった。
マリユスが彼女を欽慕《きんぼ》し彼女を崇拝したのは、きわめて当然のことだっ
前へ
次へ
全361ページ中200ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング