いようにごく静かに歩くことにしています。先夜はあなたの後ろに私は立っていました。そしてあなたがふり向かれたので、逃げ出してしまいました。一度はあなたが歌われるのを聞きました。ほんとにうれしく思いました。あなたが歌われるのを雨戸越しに聞くことが、何か邪魔になりますでしょうか。別にお邪魔になりはしませんでしょう。いいえ、そんなはずはありません。まったくあなたは私の天使《エンゼル》です。どうか時々私にこさして下さい。私はもう死ぬような気がします。ああ私がどんなにあなたをお慕いしているか、それを知ってさえいただけたら! どうか許して下さい。あなたにお話してはいますが、何を言ってるか自分でも分りません。あるいはお気にさわったかも知れません。何かお気にさわったでしょうか?」
「おおお母様!」と彼女は言った。
 そして今にも死なんとするかのように身をささえかねた。
 彼は彼女をとらえた。彼女は倒れかかった。彼はそれを腕に抱き取った。彼は何をしてるか自ら知らないで彼女をひしと抱きしめた。自らよろめきながら彼女をささえた。頭には煙がいっぱい満ちたかのようだった。閃光《せんこう》が睫毛《まつげ》の間にちらついた。あらゆる考えは消えてしまった。ある敬虔な行ないをしてるようにも思われ、ある冒涜《ぼうとく》なことを犯してるようにも思われた。その上彼は、自分の胸に感ずるその麗わしい婦人の身体に対して、少しの情欲をもいだいていなかった。彼はただ愛に我を忘れていた。
 彼女は彼の手を取り、それを自分の胸に押しあてた。彼はそこに自分の手記があるのを感じた。彼は口ごもりながら言った。
「では私を愛して下さいますか。」
 彼女はわずかに聞き取れる息のような低い声で答えた。
「そんなことを! 御存じなのに!」
 そして彼女はそのまっかな頬《ほお》を、崇高な熱狂せる青年の胸に埋めた。
 彼は腰掛けの上に身を落とした。彼女はそのそばにすわった。彼らはもはや言うべき言葉もなかった。空の星は輝き出した。いかにしてか、二人の脣《くちびる》は合わさった。いかにしてか、小鳥は歌い、雪はとけ、薔薇《ばら》の花は開き、五月は輝きいで、黒い木立ちのかなたうち震う丘の頂には曙《あけぼの》の色が白んでくる。
 一つの脣《くち》づけ、そしてそれはすべてであった。
 ふたりとも身をおののかした、そして暗闇《くらやみ》の中で互いに輝く
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