れてゆく昼の明るみと消えてゆく魂の思いとで照らされていた。
それはまだ幽霊ではないがもう既に人間ではないように思われた。
その帽子は藪《やぶ》の中に数歩の所に投げ捨ててあった。
コゼットは気を失いかけたが、声は立てなかった。そして引きつけられるような気がして、静かに後ろにさがった。彼の方は身動きもしなかった。彼を包んでるある悲しい名状し難いものによって、彼女ははっきりとは見えない彼の目つきを感じた。
コゼットは後ろにさがりながら、一本の木に行き当たって、それによりかかった。その木がなかったら危うく倒れるところだった。
その時彼女は彼の声を聞いた。実際彼女がまだ一度も直接に聞いたことのないその声であって、ようやく木の葉のそよぎから聞き分け得るくらいのささやくような低い声だった。
「許して下さい、私はここにきました。私は心がいっぱいになって、今までのようでは生きてゆけなくなりましたから、やってきました。あなたは私がこの腰掛けの上に置いたものを読んで下さいましたか。あなたは私をいくらか覚えておいでになりますか。私を恐《こわ》がらないで下さい。もうだいぶ前のことですが、あなたが私の方をごらんなすったあの日のことを、覚えておられますか。リュクサンブールの園で、角闘士《グラディアトール》の立像のそばのことでした。それからまた、あなたが私の前を通られたあの日のことも? それは六月の十六日と七月の二日とでした。もうやがて一年になります。それ以来長い間、私はもうあなたに会うことができませんでした。私はあすこの椅子番《いすばん》の女にも尋ねましたが、もうあなたを見かけないと言いました。あなたはウエスト街の新しい家の表に向いた四階に住んでおられました。よく知っていましょう。私はあなたの跡をつけたのです。ほかに仕方もなかったのです。それからあなたはどこかへ行かれてしまいました。一度オデオンの拱廊《きょうろう》の下で新聞を読んでいました時、あなたが通られるのを見たように思いました。私は駆けてゆきました。しかしそれは違っていました。ただあなたと同じような帽子をかぶったほかの人でした。それから、夜になると私はここへやってきます。心配しないで下さい、だれも私を見た者はありませんから。私はあなたの窓を近くからながめたいと思ってやって来るのです。あなたを驚かしては悪いと思って、足音が聞こえな
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