リユスはもうそこにいなかった。マリユスはいなくなってしまったのだ、万事は終わったのだ、どうしたらいいだろう? またいつか再び会えることがあるだろうか。彼女は心が痛むのを感じた、そしてそれは何物にも癒《いや》されることがなく、日ごとに度を増していった。彼女はもはや冬であるか夏であるかを知らず、日が照っているか雨が降っているかを知らず、小鳥がさえずっているかどうか、ダリアの季節であるか雛菊《ひなぎく》の季節であるか、リュクサンブールの園はテュイルリーの園よりも美しいかどうか、洗たく屋が持ってきたシャツは糊《のり》がききすぎているか足りないか、トゥーサンは「買い物」を上手《じょうず》にやったか下手《へた》にやったか、彼女にはいっさいわからなかった。そして彼女は打ちしおれ、魂を奪われ、ただ一つの考えにばかり心を向け、ぼんやりと一つ所に据わった目つきをして、幻が消え失せた跡の黒い深い場所を暗夜のうちに見つめてるかのようだった。
 けれども、彼女の方でもまた、顔色の悪くなったことのほかは何事もジャン・ヴァルジャンに知れないようにした。彼女はやはり彼に対してやさしい顔つきをしてみせた。
 しかしその顔色の悪いことだけで、ジャン・ヴァルジャンの心をわずらわすには余りあるほどだった。時とすると彼は尋ねた。
「どうしたんだい?」
 彼女は答えた。
「どうもしませんわ。」
 そしてちょっと黙った後、彼もまた悲しんでるのを彼女は察したかのように言った。
「そしてあなたは、お父様、どうかなすったのではありませんか。」
「私が? いや何でもないよ。」と彼は言った。
 あれほどお互いのみを愛し合い、しかもあれほど切に愛し合っていたふたり、互いにあれほど長く頼り合って生きてきたふたりは、今やいずれも苦しみながら、互いに苦しみの種となりながら、互いにうち明けもせず怨みもせず、ほほえみ合っていたのである。

     八 一連の囚徒

 ふたりのうちでより多く不幸な方はと言えば、それはジャン・ヴァルジャンであった。青春の間は悲嘆のうちにあっても常に独特な光輝を有するものである。
 おりおりジャン・ヴァルジャンはひどく心を苦しめて子供のようになることがあった。人の子供らしい半面を現わさせるのは、悲痛の特色である。彼はコゼットが自分から逃げ出そうとしているという感じを打ち消すことができなかった。彼はそれと
前へ 次へ
全361ページ中90ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング