ャン・ヴァルジャンにとって不安な一致があった。おそらくは、いや疑いもなく、いや確かに、それは偶然の符合であろう、しかし意味ありげな偶然である。
 彼はその未知の青年についてはコゼットに決して一言も言わなかった。けれどもある日、彼はもうたえ得ないで、自分の不幸のうちに急に錘《おもり》を投げ込んで探ってみるような漠然《ばくぜん》たる絶望の念で、彼女に言った。「あの青年は実に生意気なふうをしている。」
 一年前であったら、コゼットはまだ無関心な小娘であって、こう答えたであろう、「いいえ、あの人はきれいですわ。」十年後であったら、彼女はマリユスに対する愛を心にいだいて、こう答えたであろう、「生意気で見るのもいやですわ、ほんとにおっしゃるとおりです。」しかし現在の年齢と気持とにある彼女は、澄まし切ってただこう答えた。
「あの若い人が!」
 それはあたかも今始めて彼を見るかのような調子だった。
「ばかなことをしたものだ!」とジャン・ヴァルジャンは考えた。「娘は彼に気づいてもいなかったのだ。それをわざわざ私の方から教えてやるなんて!」
 老人の心の単純さよ、子供の心の深奥さよ!
 若い娘はいかなる罠《わな》にもかからぬが若い男はいかなる罠にも陥るのは、苦しみ悩む初心の頃の通則であり、最初の障害に対する初恋の激しい争いの通則である。ジャン・ヴァルジャンはマリユスに対してひそかに戦いを始めたが、マリユスはその情熱と若年との崇高な愚昧《ぐまい》さでそれを少しも察しなかった。ジャン・ヴァルジャンは彼に対して多くの陥穽《かんせい》を設けた。彼はリュクサンブールへやって来る時間を変え、ベンチを変え、ハンケチを置いてゆき、また一人でやってきたりした。マリユスはそれらの罠につまずいた。ジャン・ヴァルジャンが途上に据えた疑問点に対して正直にしかりと答えた。けれどもコゼットは、外観の無心さと乱し難い落ち着きとのうちに閉じこもっていた。それでジャン・ヴァルジャンはこういう結論に達した。「あのばか者はコゼットを思い込んで夢中になっている。しかしコゼットは彼のいることさえも知らないでいる。」
 それでも彼はなお心のうちに悲しい戦慄《せんりつ》を感じた。コゼットが恋を知る時はいつ到来するかも知れなかった。何事も初めは無関心なものではないか。
 ただ一度、コゼットは失策をして彼を驚かした。三時間も止まっていた
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