口実の下に言わば彼女に相談もしないで前もってすべての快楽を奪い去ること、彼女の無知と孤独とを利用して人為的の信仰を植えつけること、それは一個の人間の天性を矯《た》めることであり、神に嘘《うそ》をつくことではないか。そして、他日それらのことがわかり修道女になったのを遺憾に思って、コゼットはついに自分を恨むようにはなりはすまいか。この最後の考えは、ほとんど利己的なもので他の考えよりもずっと男らしくないものだったが、しかし彼には最もたえ難いことだった。彼は修道院を去ろうと決心した。
彼はそれを決心した。是非ともそうしなければならないと心を痛めながらも確信した。非とすべき点は一つもなかった。五年間その四壁のうちに潜み姿を隠していた以上は、世間を恐れるべき理由はなくなり消散してるに違いなかった。彼は平然として世人の間に戻ることができるのだった。彼も年を取り、万事が変わっていた。今はだれが見現わすことができよう。それからまた最も悪くしたところで、危険は彼だけにしかなかった。そして彼は、自分が徒刑場に入れられたからといってコゼットを修道院のうちに閉じこめる権利を持っていなかった。その上、義務の前には危険なんか何であろう。また終わりに、用心をし適当な警戒をなすのに彼を妨ぐるものは何もなかった。
コゼットの教育の方は、もうほとんど終わって完成していた。
一度決心を定めると、彼はただ機会を待つばかりだった。しかるに機会はやがてやってきた。フォーシュルヴァン老人が死んだのである。
ジャン・ヴァルジャンは修道院長に面謁《めんえつ》を願って、こう申し立てた。兄が死んだについて多少の遺産が自分のものとなって、これからは働かないで暮らすことができるので、修道院から暇をもらって娘をつれてゆきたい。けれども、コゼットは誓願をしていないから、無料で教育されたことになっては不当である。それで、コゼットが修道院で過ごした五年間の謝礼として、五千フランの金をこの修道会に献ずることを、どうか許していただければ仕合わせである。
そのようにしてジャン・ヴァルジャンは、常住礼拝の修道院から出て行った。
修道院を去りながら彼は、例の小さな鞄《かばん》を自らわきの下に抱えて、それをだれにも持たせず、鍵《かぎ》は常に身につけていた。その中からはいいかおりが出てるので、非常にコゼットの心をひいた。
今ここに言
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