達者で、ベネディクト修道女というよりもむしろベネディクト修道士と言ったふうな型《タイプ》だった。
 副修道院長は、シヌレス長老と言って、ほとんど盲目なスペイン人の老修道女だった。
 声の母たちのうちで重立ったのは次のような人たちだった。会計係りのサント・オノリーヌ長老、修練女長のサント・ジェルトリュード長老、副長のサント・アンジュ長老、御納室係りのアンノンシアシオン長老、修道院中でただ一人の意地悪で看護係りのサン・トーギュスタン長老、なお次には、みごとな声を持ったまだ若いサント・メチルド長老(ゴーヴァン嬢)、フィーユ・ディユー修道院やジゾールとマンニーとの間にあるトレゾール修道院にいたことのあるデ・ザンジュ長老(ド・ルーエ嬢)、サン・ジョゼフ長老(ド・コゴリュード嬢)、サント・アデライド長老(ドーヴェルネー嬢)、ミゼリコルド長老(苦業にたえ得なかったシファント嬢)、コンパッシオン長老(規則に反して六十歳ではいってきたきわめて金持ちのド・ラ・ミルティエール嬢)、プロヴィダンス長老(ド・ローディニエール嬢)、一八四七年に院長になったプレザンタシオン長老(ド・シガンザ嬢)、それからまた、気狂《きちが》いになったサント・セリーニュ長老(彫刻家セラッキの妹)、気狂いになったサント・シャンタル長老(ド・スューゾン嬢)。
 それからなお、最も美しい人たちの一人には、二十三歳の美人があった。ブールボン島の生まれで、ローズ騎士の後裔《こうえい》で、俗世ではローズ嬢と言われ、修道院ではアッソンプシオン長老と言われていた。
 サント・メチルド長老は、歌と歌唱隊とを統べる役目を持っていて、好んで寄宿生を採用した。採用される者は、普通は一音階すなわち七人であって、声と身体とのよく整った十歳から十六歳までの者で、小さい者から大きい者と年齢の順に並べられて、立ちながら歌わせられた。それを見ると、若い娘らでできた野笛のようなありさまで、パン神の天使らでできてる生きた笛のような観があった。
 寄宿生らに最も好かれていた助修道女には次のような人々がいた。サント・ウーフラジー姉《し》、サント・マルグリット姉、まだ幼いサント・マルト姉、いつも皆を笑わせる長い鼻を持ったサン・ミシェル姉。
 修道女らは皆幼い生徒らにやさしかった。彼女らが厳格であるのは、ただ自分自身に対してのみだった。火がたかれるのはただ寄宿舎の方だけだった。それから食物も、修道院の方に比べると寄宿舎の方が上等だった。その上に生徒らは種々な世話を受けた。ただ、生徒が修道女のそばを通って話しかけてみても、修道女は決して返事をしなかった。
 そういう沈黙の規律は次のような結果をきたしていた。すなわち、修道院中において、言葉は人間から奪われて無生物に与えられていた。あるいは会堂の鐘が口をきき、あるいは庭番の鈴が口をきいた。受付の女のそばに置かれていて家中に響き渡る大きな音の出る鐘は、その種々の音で、一種の音響電信のような仕方で、しなければならない実際的の仕事を知らせたり、必要に応じて某々の人を応接室に呼んだりした。各人および各仕事は、皆それぞれきまった音を持っていた。修道院長は一つと一つ、副院長は一つと二つ。六つと五つは課業。それで生徒らは決して教室にはいるということを言わないで、六つと五つに行くと言っていた。四つと四つはジャンリー夫人の音であった。その音はごくしばしば聞かれた。好意を持たない者らはそれを四つの悪魔[#「四つの悪魔」に傍点]と言っていた([#ここから割り注]訳者注 四つの悪魔とは大騒ぎという意味にもなる[#ここで割り注終わり])。十と九つは大事件の合い図だった。大事件というのは壁の門[#「壁の門」に傍点]の開くことであって、その鋲《びょう》のいっぱいついた恐ろしい鉄の扉《とびら》は大司教の前にしか決して開かれなかったのである。
 大司教と庭番とのほかは、前に言ったとおり、男はだれも修道院の内部にははいられなかった。けれど寄宿生らはその他に二人の男を見たことがあった。一人はバネス師という年老いた醜い教誨師《きょうかいし》であって、それを皆は会堂の歌唱の間《ま》で格子《こうし》越しに見ることを許されていた。も一人は図画の教師のアンシオー氏で、前に数行引用した一寄宿生の手紙の中ではアンシオ[#「アンシオ」に傍点]氏と呼ばれていて、恐ろしい[#「恐ろしい」に傍点]佝僂《せむし》の老人[#「の老人」に傍点]だと書かれている。
 男の人選がすべていかにうまく行なわれてるかは、これでわかるであろう。
 そういうのがこの不思議な家のありさまであった。

     八 心の次に石

 精神的の方面を大略述べた後に、その物質的方面の象《すがた》を少しく指摘することはむだではないだろう。また既に読者にはそれが多少わかってるはずである。
 プティー・ピクプュス・サン・タントアーヌの修道院は、ポロンソー街とドロア・ムュール街とピクプュス小路と、今はつぶれているが古い地図にはオーマレー街とのっていた小路とが、互いに交差して切り取った広い四角形のほとんど全部を占めていた。四つの街路はその四角形を溝《みぞ》のように取り巻いていた。修道院は数個の建物と一つの庭とから成っていた。中心の建物はこれを全体として見れば、雑多な様式をつみ重ねたもので、上から見おろせば、地上に倒した絞首台とほとんど同じ形になっていた。絞首台の大柱は、ピクプュス小路とポロンソー街との中に含まるるドロア・ムュール街の辺全体を占めており、その腕木は、鉄格子《てつごうし》のある灰色の高いいかめしい正面であって、ピクプュス小路を見おろしていた。六十二番地という標札のある正門はその端になっていた。この正面の約中央に、ほこりと灰とに白くなった穹窿形《きゅうりゅうけい》の低い古門があって、蜘蛛《くも》が巣を張っており、開かれるのはただ日曜日ごとに一、二時間と、修道女の柩《ひつぎ》が修道院から出るまれな場合だけだった。それが会堂への一般人の入り口であった。絞首台の肱《ひじ》に当たる所に、祭式の行なわれる四角な広間があって、それを修道女らは特別室[#「特別室」に傍点]と呼んでいた。大柱に当たる所に、長老やその他の修道女の分房と修練女の室とがあった。腕木に当たる所に、料理場と食堂とがあって、それと背中合わせに大歩廊と会堂とがあった。六十二番地の門をはいると、閉ざされてるオーマレー小路の角《かど》に寄宿舎があって、それは外からは見えなかった。四角形の残りの部分は庭になっていて、庭の地面にポロンソー街の地面よりもずっと低かった。そのために壁は外部よりも内側の方がはるかに高かった。庭は軽く中高になっていて、中央に一つの築山《つきやま》があり、その上に円錐形をなして梢《こずえ》のとがったりっぱな樅《もみ》の木が一本あって、ちょうど円楯《まるたて》の槍受《やりう》けの丸い中心から溝《みぞ》が出てるように、そこから四つの大径が出ていた。そして八つの小径が各大径の間に二つずつ通っていた。それで庭がもし円形だったら、道の幾何学的配置の図形は、ちょうど輪の上に十字形が置かれたようなありさまになったに違いない。道はみな庭の不規則な壁の所まで達しているので、その長さは一様でなかった。道の両側にはすぐりの木が立ち並んでいた。庭の奥には、大きな白楊樹の並んだ一筋の道が、ドロア・ムュール街の角にある古い修道院の廃屋から、オーマレー小路の角《かど》にある小修道院まで通じていた。小修道院の前方には、小庭と言われてるものがあった。それらの全体に加うるに、一つの中庭、中部の住家がこしらえてる種々な角、監獄の壁、ポロンソー街の向こう側にあって近くにずっと見渡せる黒い長い屋根並みの一列、などをもってする時には、今から四十五年前のプティー・ピクプュスのベルナール修道女らの住居のありさまが、だいたいわかるであろう。この聖《きよ》い住居はまさしく、十四世紀から十六世紀へかけて有名だった一万一千の悪魔の庭球場[#「一万一千の悪魔の庭球場」に傍点]と呼ばれるテニスコートの跡に、建てられていたのである。
 なおそれらの街路は、パリーのうちでは最も古いものだった。ドロア・ムュールとかオーマレーとかいう名前はきわめて古いものである。がそういう名前を持ってる街路はなおずっと古いものである。オーマレー小路はもとモーグー小路と言われていた。そしてドロア・ムュール街([#ここから割り注]訳者注 垂直壁街の意[#ここで割り注終わり])はエグランティエ街([#ここから割り注]訳者注 野薔薇街の意[#ここで割り注終わり])と言われていた、それは人が石を切る前に神は花を咲かせられたからである。

     九 僧衣に包まれし一世紀

 われわれはプティー・ピクプュスの古《いにしえ》のありさまを詳しく述べているのであるから、そして既にこの秘密な隠れ家《が》の窓を一つ開いて中をのぞいたことであるから、なおここにも一つ枝葉の点を述べることを許していただきたい。これは本書の内容とは没交渉のものではあるけれども、この修道院が独特な点を有することを了解せんがためには、きわめて特異な有効なものである。
 小修道院に、フォントヴローの修道院からやってきた百歳ばかりの女が一人いた。彼女は革命以前には上流社会の人だった。ルイ十四世の下に掌璽官《しょうじかん》だったミロメニル氏のことや、親しく知っていたというあるデュプラーという議長夫人のことなぞを、いつもよく話していた。あらゆる場合に右の二つの名前を持ち出すことは、彼女の楽しみでもあり見栄《みえ》でもあった。またフォントヴローの修道院に関して種々大げさなことを話していた、フォントヴローは大都市であるとか、修道院の中に多くの街路があるとかいうようなことを。
 彼女にはピカルディーのなまりがあった。寄宿生らはそれをおもしろがっていた。毎年彼女はおごそかに誓願をくり返した。そして誓言をなす時にはいつも牧師にこう言った。「サン・フランソア閣下はそれをサン・ジュリアン閣下にささげたまい、サン・ジュリアン閣下はそれをサン・ウーゼーブ閣下にささげたまい、サン・ウーゼーブ閣下はそれをサン・プロコープ閣下にささげたまい、云々云々、そして私はそれを、わが父よ、なんじにささげまする。」それで寄宿生らは、頭巾《ずきん》の下で([#ここから割り注]訳者注 ひそかに[#ここで割り注終わり])ではないが、面紗《かおぎぬ》の下で笑うのであった。かわいい小さな忍び笑いであって、いつも声の母たちの眉《まゆ》をしかめさした。
 またある時は、この百歳の女は種々な話をしてきかした。私が若い頃にはベルナール修道士たちは近衛兵にも決してひけを取らなかった[#「私が若い頃にはベルナール修道士たちは近衛兵にも決してひけを取らなかった」に傍点]、というようなことを言った。そういう口をきくのは一世紀で、しかも十八世紀だったのである。またシャンパーニュとブールゴーニュとの四つの葡萄酒《ぶどうしゅ》の風習のことも話した。革命以前には、ある高貴の人、たとえばフランス元帥だの、大侯だの、枢密院公爵だの、そういう人々がシャンパーニュやブールゴーニュのある町を通らるる時には、その町の団体の者がごきげん伺いにまかり出て、四種の葡萄酒をついだ四つの銀の盞《さかずき》を献ずるのであった。第一の盞には猿《さる》の葡萄酒[#「の葡萄酒」に傍点]という銘が刻んであり、第二のには獅子《しし》の葡萄酒[#「の葡萄酒」に傍点]、第三のには羊の葡萄酒[#「羊の葡萄酒」に傍点]、第四のには豚の葡萄酒[#「豚の葡萄酒」に傍点]という銘が刻んであった。その四つの銘は酩酊《めいてい》の四段階を示したものであった。第一段の酩酊は人を愉快になし、第二段は人を怒りっぽくなし、第三段は人を遅鈍になし、第四段は人を愚昧《ぐまい》にする。
 彼女は何か一つの秘密な物を引き出しの中に入れて、鍵《かぎ》をかってごく大事にしまっていた。フォントヴローの規則はそういうことを禁じなかったのである。彼女はその品を
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