らは男の説教師や祭司などが見えるからだった。男の牧師を見ることは修道女らには禁じられていたのである。ある日演壇には、高位の若い牧師が立っていた。それはローアン公爵であって、貴族院議員であり、またレオン大侯と言っていた一八一五年には近衛騎兵の将校をしてたことがあり、後に枢機官となりブザンソンの大司教となって一八三〇年に死んだ人である。そのローアン氏が初めてプティー・ピクプュスの修道院で説教をした時のことであった。アルベルティーヌ夫人は、平素は全く身動きもしないで深い落ち着きをもって説教や祭式に列するのだったが、その日ローアン氏を見るや半ば身を起こして、礼拝堂のひっそりした中で大声に言った「まあ[#「まあ」に傍点]、オーギュスト[#「オーギュスト」に傍点]!」会衆はみな驚いてふり返り、その説教師も目を上げて見た。しかしアルベルティーヌ夫人はもう不動の姿に返っていた。外部の世界の息吹《いぶ》き、生命の輝き、その一つが一瞬間、火も消えて凍りついてる彼女の顔の上を通ったのである、そして次にまたすべては消え失せ、狂女はまた死骸《しがい》となってしまった。
 けれども右の二語は、修道院の中で口をきき得るすべての人たちの噂《うわさ》の種となった。そのまあオーギュスト[#「まあオーギュスト」に傍点]という言葉のうちには、いかに多くのことがこもっていたことか、いかに多くの秘密がもらされたことか。ローアン氏の名は実際オーギュストであった。ローアン氏を知ってるところを見ると、アルベルティーヌ夫人はごく上流の社会からきたに違いなかった。かくも高貴な人をあれほど親しく呼ぶところを見ると、彼女もまた上流の社会の高い地位にあったに違いなかった。またローアン氏の「呼び名」を知ってるところを見ると、彼女は彼とある関係が、あるいは親戚関係かも知れないが、しかし確かに密接な関係があるに違いなかった。
 ショアズールとセランという二人の至って厳格な公爵夫人が、しばしばこの会を訪れてきた。きっと上流婦人[#「上流婦人」に傍点]の特権ではいって来るのであろうが、それをまた寄宿舎では非常に恐れていた。二人の老夫人が通る時には、あわれな若い娘らは皆震え上がって目を伏せていた。
 ローアン氏はまた自ら知らずして、寄宿生らの注意の的となっていた。その頃彼は、司教職につく前にまず、パリー大司教の大助祭となっていた。そしてプティー・ピクプュスの修道女らの礼拝堂の祭式を唱えにやって来ることは、彼の仕事の一つとなっていた。若い幽閉の女らはだれも、セルの幕が掛かってるために彼の姿を見ることはできなかったけれど、彼はやや細いやさしい声を持っていたので、彼女らはそれをやがて聞き覚えて、他の者の声と聞き分けることができるようになった。彼は近衛《このえ》にはいっていたことがあるし、それからまた人の言うところによると、非常なおめかしやで、美しい栗色《くりいろ》の髪を頭のまわりにみごとに縮らしているそうであるし、広い黒いりっぱなバンドをしめており、その教服は世に最も優雅にたたれているそうである。そして彼は十六、七歳の娘のあらゆる想像の的となっていた。
 何ら外部の物音は、修道院の中まで達してこなかった。けれどもある年、笛の音が聞こえてきた。それは一事件だった。当時の寄宿生らは今もなおそれを思い起こすだろう。
 それはだれかが付近で奏する笛の音であった。今日ではもう遠く忘られている一つの歌曲をいつも奏していた。「わがゼチュルベよ[#「わがゼチュルベよ」に傍点]、わが魂の上にきたり臨め[#「わが魂の上にきたり臨め」に傍点]。」そして日に二三回もそれが聞こえた。
 若い娘たちは数時間それに聞きほれてることがあった。声の母たちは狼狽《ろうばい》した。神経は過敏になって、むやみと罰が課せられた。そういうことが数カ月続いた。寄宿生らは皆多少その見知らぬ音楽家に心を動かしていた。各自に自分をゼチュルベと夢想していた。笛の音はドロア・ムュール街の方から響いていた。笛をあれほど美妙に奏しているその「青年」、自ら気づかずにこれらすべての娘の魂を同時に奏しているその「青年」、彼の姿をたとい一瞬間でもながむることができ、垣間《かいま》見ることができ、瞥見《べっけん》することができるならば、彼女らはすべてを捨てて顧みず、すべてを冒し、すべてを試みたであろう。中には通用門からぬけ出して、ドロア・ムュール街に臨んだ四階の方まで上ってゆき、高窓からのぞこうとした者もあった。けれども、見ることはできなかった。そのうちの一人は、頭の上に手を差し伸ばして窓の格子《こうし》から外に出し、白いハンカチを打ち振りまでした。またもっと大胆なまねをした者が二人あった。彼女らは屋根の上までよじのぼり、危険を冒して、ついに首尾よく「青年」を見ることができた。ところがそれは、零落した盲目の老亡命者であって、屋根裏の部屋で退屈まぎれに笛を吹いてるのだった。

     六 小修道院

 このプティー・ピクプュスの構内には、全く異なった三つの建物があった。修道女らが住んでいる大きな修道院、生徒らが泊まっている寄宿舎、それから小修道院[#「修道院」に傍点]と言われていたところのもの。小修道院は庭のついた一連の長屋で、各種の会派のあらゆる老修道女らがいっしょに住んでいて、革命のために破壊された修道生活の名残《なご》りのものであった。黒や灰色や白やあらゆる色の混合であって、あらゆる組合あらゆる種類のものの会合であった。もしこういう言葉の組み合わせが許されるならば、雑色修道院とも呼び得べきものであった。
 既に帝政の頃から、革命のために散乱して途方にくれてるあわれな修道女らは、ベネディクト・ベルナール派の建物のうちに身を置くことを許されたのである。政府は彼女らにも少しの年金を与えた。プティー・ピクプュスの女たちは前から年金を喜んで受けていたのである。それは実におかしな混合体で、各自に自派の規則を守っていた。時とすると寄宿舎の生徒らは、大休みとして、彼女らを訪問することが許された。若い生徒らが、サン・バジル長老やサント・スコラスティック長老やジャコブ長老などのことを特に覚えていたのは、この訪問の結果である。
 それらの避難修道女のうちの一人は、ほとんど自分の家に帰ってきたような観があった。それはサント・オール派の修道女で、その一派からただ一人生き残っていた者である。サント・オール派の昔の修道院は、十八世紀の初めには、後にマルタン・ヴェルガのベネディクト修道女らのものとなったプティー・ピクプュスの家にあったのである。この聖《きよ》き童貞女はごく貧しくて、自派のりっぱな服、緋《ひ》色の肩衣のついた白の長衣を、ふだんに着られなかったので、それを大事そうに小さな像に着せておいた。彼女はその像を慇懃《いんぎん》に人に見せていたが、死ぬ時にそれを建物に遺贈した。かくて一八二四年には、このサント・オール派のものは一人の修道女きり残っていなかったが、今日ではもう一つの人形きり残っていない。
 それらのりっぱな長老たちのほかに、たとえばアルベルティーヌ夫人のような世俗の老女も数人、小修道院に隠退することを院長から許されていた。その中には、ボーフォール・ドープール夫人だの、デュフレーヌ侯爵夫人などもいた。また一人の女は、身分が少しもわからなくて、鼻をかむ時に恐ろしい音を立てることだけ知られていた。寄宿舎の生徒らは彼女をヴァカルミニ夫人([#ここから割り注]訳者注 とどろき夫人の意[#ここで割り注終わり])と呼んでいた。
 一八二〇年か二一年ごろ、アントレピードという小さな定期|編纂物《へんさんぶつ》を当時編集していたジャンリー夫人が、プティー・ピクプュスの修道院の一室にはいりたいと願ってきた。オルレアン公の推薦があった。蜂《はち》の巣をつっついたような騒ぎになった。声の母たちは震え上がった。ジャンリー夫人は小説を書いたことがあったのである。けれども、自分はだれよりも小説をきらう者であると彼女は公言した。そしてまた自分は熱烈な信仰の境地に到達したのだと言った。神の助けと、またオルレアン公の助けとによって、彼女はそこにはいることができた。ところが七、八カ月たつと、庭に木陰がないという理由で出て行ってしまった。修道女らは大喜びをした。老年ではあったが彼女は、なお竪琴《ハープ》をいつも弾じていて、それもきわめて巧みに弾じた。
 出て行く時彼女は自分の分房に痕《あと》を残していった。ジャンリー夫人は迷信家でまたラテン語学者であった。その二つのことは彼女の人がらにかなりいい趣を添えた。彼女が金銭や宝石などを入れていた分房の小さな引き出しの内部に、次の五行のラテン語の詩がはりつけてあるのが今から数年前まで残っていた。それは黄色い紙に赤インキで彼女が自らしたためたもので、彼女に言わせると盗人を恐がらせる威力を持ってるものだそうである。

[#ここから4字下げ]
値異なる三つの身体、十字架の枝にかかる、
ディスマス、ジェスマス、中央にイエス・キリスト。
ディスマスは高きを求め、あわれジェスマスは低きを求む。
願わくは神よ、われらの生命《いのち》と財とを護《まも》りたまえ。
この詩を誦《しょう》する者は、その財を盗まるることなからむ。
[#ここで字下げ終わり]

 六世紀頃のラテン語のその詩は、あのカルヴェールの丘でキリストとともに十字架につけられた二人の盗賊の名が、一般に信ぜられてるようにディマスおよびジェスタスと言うのであるか、あるいはこの詩のとおりディスマスおよびジェスマスというのであるかについて、問題をひき起こした。この詩の方の名前は、十八世紀にジェスタス子爵が自分はある悪党の後裔《こうえい》であると言った主張を裏切るものだった。それからまたこの詩にあるとせられた有利なまじないの威力は、オスピタリエ派の女らの信仰の一個条となっている。
 ここの会堂は、大きい方の修道院と寄宿舎とを切り離すようなふうに建てられていたが、もとより寄宿舎と大きい修道院と小修道院とに共通のものであった。それからまた、街路に開いている検疫所みたいな一種の入り口から、一般の人もはいることが許されていた。けれども修道院の中に住んでる人たちには、決して外部の人の顔が見えないようにしつらえてあった。その会堂の歌唱の間《ま》は、ある大きな手につかまれてるようで、普通の会堂に見るように祭壇の続きとはなっていないで、祭司の右手の方に一種の広間あるいは一種の薄暗い窖《あなぐら》をなすようなふうに折れ曲がっていた。またその広間は、前に述べたとおり高さ七尺の幕で閉ざされていた。幕の陰に木の椅子《いす》の上に、歌唱の修道女らは左に寄宿生らは右に、助修道女や修練女らは奥に控えていた。それだけのことを想像しても、聖務に列するプティー・ピクプュスの修道女らのありさまは多少わかるであろう。歌唱の間と呼ばるるその窖は、一つの廊下で修道院に通じていた。会堂内の明りは庭から採られていた。規則上沈黙を守らなければならないような祭式に修道女らが列する時は、立てたりねかしたりする椅子の腰木がぶつかる音で、一般の人はようやく彼女らの列席を知るのであった。

     七 影の中の数人の映像

 一八一九年から二五年まで六年の間、プティー・ピクプュスの修道院長は、教名をイノサント長老というブルムール嬢であった。聖ベネディクト会の聖者伝[#「聖ベネディクト会の聖者伝」に傍点]の著者であるマルグリット・ド・ブルムールの家の出であった。院長に再選されたのである。六十歳ばかりの背の低いふとった女で、前に引用した一寄宿生の手紙の言葉によれば「破甕《やれがめ》のような声を出す」女だった。けれどすぐれた婦人で、修道院中でただ一人快活な女であって、そのために人から敬愛されていた。
 イノサント長老は、会の大立者だった先祖のマルグリットの気質を受け継いでいた。文才があり、博識で、学者で、鑑識家で、歴史を愛好し、ラテン語を学んでおり、ギリシャ語をつめ込んでおり、ヘブライ語に
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