柩《ひつぎ》を入れることを禁じていた。それゆえ死ぬ時には寺から出て行かねばならないので、彼女らはそれを苦にし、罪悪のようにそれを恐れていた。
 彼女らは、それもつまらぬ慰安ではあるが、昔彼女らの会の所有地であった古いヴォージラールの墓地に、一定の時間に一定の片すみに埋められることを許されていた。
 木曜日に彼女らは、日曜日と同じに大弥撒や夕祷《ゆうとう》やいろんな祭式を聞くようになっている。なおその他に、教会が昔フランスにふりまき今日でもスペインやイタリーにふりまいてるあらゆる小さな祭典で、世間の人のほとんど知らぬようなものまで、彼女らは注意深く実行する。また彼女らが礼拝堂に列する間の時間は非常に長いものである。その祈祷の数と時間とについては、ここに彼女らの一人の無邪気な言葉を引用したら最もよくわかるだろう。「志願女の祈祷は恐ろしいもので[#「志願女の祈祷は恐ろしいもので」に傍点]、修練女の祈祷はなお大変なもので[#「修練女の祈祷はなお大変なもので」に傍点]、誓願女の祈祷はいっそう大変なものです[#「誓願女の祈祷はいっそう大変なものです」に傍点]。」
 一週に一度集会が催される。院長が会長となり、声の母たちがそれに立ち会う。各修道女は順次に石の上に行ってひざまずき、その週間のうちに犯した過失や罪を皆の前で高い声で懺悔《ざんげ》する。各懺悔の後に声の母たちは相談をして、公然と苦業を課する。
 少し重い過失は皆それを高声の懺悔に取っておくが、なおそのほかに軽い過失に対しては、彼女らのいわゆる報罪[#「報罪」に傍点]というのがある。報罪をなすには、祭式の間院長の前に腹ばいに平伏して、いつもわれらの母[#「われらの母」に傍点]と呼ばれるその院長が、自分の椅子《いす》の板を軽くたたいて、もう立ち上がってもよいと知らせるまでそうしていなければならない。ごく些細《ささい》なことにも報罪をなすのである。コップをこわしたこと、面紗《かおぎぬ》を破いたこと、ふと祭式に数秒おくれたこと、会堂でちょっと音符をまちがえたことなど、それだけでも報罪をしなければならない。報罪は全く自発的のもので罪ある者自ら自分を裁《さば》き自分にそれを課するのである(報罪の coulpe と罪ある者の coupable は同じ語原である)。祭典の日や日曜には、四人の歌唱の母たちが、四つの譜面台のついてる大きな机の前で祭式を歌う。ある日一人の歌唱の長老が、エッケ[#「エッケ」に傍点](ここに)の語で初まってる賛歌を、エッケ[#「エッケ」に傍点]の代わりにド[#「ド」に傍点]、シ[#「シ」に傍点]、ソ[#「ソ」に傍点]という三つの音符を大声に言って、その不注意のために祭式の間じゅう報罪を受けたことがある。その過失を特に大きくしたわけは、会衆がそれを笑ったからであった。
 修道女が応接室に呼ばれる時には、それがたとい院長であろうと、前に述べたとおり、口だけしか見えないように面紗《かおぎぬ》を顔の上に引き下げる。
 院長だけが他人に言葉を交じうることを許されている。他の者はごく近親の者にしか会うことができなくて、それもまたきわめてまれにしか許されない。もしふいに俗世の者がやってきて、俗世において知り合いであったかまたは愛したかした一人の修道女に会うことを求める時には種々の交渉が必要である。それが女である場合には、時としては許可されることもある。修道女はやってきて板戸越しに話をする。板戸は母かまたは姉妹にしか開かれない。男には決して面会を許されないのは言うまでもないことである。
 上のようなのがすなわち、マルタン・ヴェルガによっていっそうおごそかにされた聖ベネディクトの規則である。
 それらの修道女は、他の会派の人たちが往々あるように、快活で健やかで顔色がいいなどということは決してない。彼女らは青白くまた重々しい。一八二五年から一八三〇年までのうちに、狂人になった者が三人ある。

     三 謹厳

 この会にはいった女は、少なくとも二年間は、多くは四年間、志願女であって、それからまた四年間は修練女の地位にとどまる。最後の誓願が、二十三、四年たたないうちになさるることはきわめてまれである。マルタン・ヴェルガのベルナール・ベネディクト修道会は、決して寡婦を加入せしめない。
 彼女らは各自の分房の中で多くのひそかな苦業を行なう。それは決して人に語ってはいけないものである。
 修練女が誓願式を行なう日には、皆で最も美しい服をつけてやり、白薔薇《しろばら》の帽をかぶらせ、髪をつや出しして束ねてやり、それから彼女は平伏する。皆は彼女の上に大きな黒い面紗《かおぎぬ》を広げて、死者の祭式を歌う。その時修道女らは二列に分かれる。一つの列は彼女のすぐそばを通って、「われらの姉妹は死せり[#「われらの姉妹は死せり」に傍点]」と悲しい調子で言い、他の列は激しい声で、「イエス[#「イエス」に傍点]・キリストに生きぬ[#「キリストに生きぬ」に傍点]」と答える。
 本書の物語が起こった頃には、一つの寄宿舎がこの修道院に付属していた。大体金持ちの貴族の若い娘らの寄宿舎であって、そのうちには、サント・オーレール嬢やベリサン嬢や、タルボーというカトリックで有名な名前を持ってるイギリス娘などがいた。それらの若い娘らは、四方を壁に護《まも》られて修道女らから育てられ、俗世と時勢とを恐れつつ大きくなっていた。その一人はある日こんなことを言った、「街路の舗石を見ますと[#「街路の舗石を見ますと」に傍点]、頭から足先まで震えます[#「頭から足先まで震えます」に傍点]。」彼女らは青い服をつけ、白い帽子をかぶり、鍍金《めっき》銀か銅かの聖霊メダルを胸につけていた。大祭典の日には、特に聖マルタの日には、修道女の服装をして、終日聖ベネディクトの祭式と勤行《ごんぎょう》とをなすことが、非常な恩恵としてまた最上の幸福として許されていた。初めのうちは、修道女らがその黒服を彼女らに貸し与えていた。けれどもそれは神を涜《けが》すように思われたので、院長の禁ずるところとなった。その貸与は修練女にしか許されなかった。注意すべきことには、それらの仮装は修道院の中でひそかな布教心によって特に許され奨励されたものであって、聖衣に対するある予備趣味を娘らに与えるためのものだったが、寄宿生らにとっては現実の幸福であり実際の楽しみであった。彼女らはごく単純にそれを喜んでいた。それは新奇なものであって[#「それは新奇なものであって」に傍点]、彼女らの心を変えさした[#「彼女らの心を変えさした」に傍点]。子供心のいかにも無邪気な理由ではないか。それにしても、手に灌水器《かんすいき》を持ち、譜面机の前に四人ずつ立って、数時間歌を歌うという幸福は、われわれ俗人の容易に理解し難いものである。
 生徒らは苦業を除いて修道院のすべての勤めを守っていた。中には、世に還《かえ》って結婚した数年後まで、だれかが扉《とびら》をたたくたびごとに急いで「永遠に[#「永遠に」に傍点]」と言う習慣を脱し得なかったような、そういう女もいた。修道女らのように、寄宿生らも近親の者に応接室でしか会えなかった。母親でさえ、彼女らを抱擁することは許されなかった。いかに厳格な規律が守られていたかは次のことを見てもわかる。ある日一人の若い寄宿生は、三歳の妹を連れた母親から訪れてこられた。彼女は泣いた。なぜなら、妹を抱擁したくてたまらなかったがそれもできなかったからである。せめて子供に格子《こうし》から手を出さしてそれに脣《くちびる》をつけることだけは許してもらえるように願った。がそれもほとんどしかるようにして拒絶された。

     四 快活

 それらの若い娘らは、それでもなおこの荘重な家のうちに多くのおもしろい思い出を残していった。
 ある時には、この修道生活のうちに子供心がほとばしり出ることもあった。休憩の鐘が鳴る。扉《とびら》はいっぱいに開かれる。鳥は言っている「うれしいこと、娘さんたちが来る!」喪布のように十字の道がついてるその庭には、突然青春の気が満ちあふれる。輝かしい顔、白い額、楽しい光に満ちた潔《きよ》い目、あらゆる曙《あけぼの》がその暗黒の中にひらめく。賛美歌の後、鐘の鳴った後、鈴の鳴らされた後、喪鐘の後、祭式の後、そこに突然|蜜蜂《みつばち》の羽音よりもなおやさしい娘らの声がわき上がってくる。喜びの巣は開かれて、各自に蜜をもたらしてくる。嬉戯《きぎ》し、呼びかわし、いっしょにかたまり、走り出す。きれいなまっ白な小さな歯並みの脣《くちびる》が方々でさえずる。遠くから面紗《かおぎぬ》がそれらの笑いを監視し、影がそれらの輝きをにらんでいるが、それにもかまわず皆輝き皆笑う。四方の陰鬱《いんうつ》な壁もしばしは光り輝く。壁はそれら多くの喜悦を反映してほのかに白み、それらのやさしい蜜蜂の群れをながめている。それはあたかも喪中に降り注ぐ薔薇《ばら》の花である。娘らは修道女の眼前で嬉戯する。森厳なる目つきも無邪気をわずらわすことはできない。それらの娘によっていかめしい時間の間にも無邪気な一瞬が現われる。小さい者は飛び、大きい者は踊る。この修道院のうちにあっては、嬉戯《きぎ》に天国が交じっている。それらの咲き誇ったみずみずしい魂ほど喜ばしくまた尊いものはない。ホメロスもペローとともにここに微笑《ほほえ》むであろう。この暗黒の庭のうちには、あらゆる老婆の顔のしわをも伸ばすまでに青春と健康と騒ぎと叫びと忘我と快活と幸福とがあって、叙事詩中の老婆も物語中の老婆も、宮廷のそれも茅屋《ぼうおく》のそれも、ヘクーバから鵞鳥婆《がちょうばあ》さんまで([#ここから割り注]訳者注 イリヤッドと千一夜物語の中の老婆[#ここで割り注終わり])をほほえませるものである。
 常に多くの優美を持ちうっとりとした微笑を人に起こさせるあの子供の言葉[#「子供の言葉」に傍点]は、おそらく他の所でよりも多くこの家の中で発せられる。この陰気な四壁の中で、五歳の女の児がある日叫んだのである。「お母様[#「お母様」に傍点]、私はもう九年と十月きりここにいないでいいと大きい方がおっしゃいましたのよ[#「私はもう九年と十月きりここにいないでいいと大きい方がおっしゃいましたのよ」に傍点]。ほんとにうれしいこと[#「ほんとにうれしいこと」に傍点]!」
 次の記憶すべき対話が行なわれたのもここである。
 声の母――なぜあなたは泣いています。
 子供(六歳、泣きながら)――私はアリクスさんにフランスの歴史を知っていると申しましたの。するとアリクスさんは私がそれを知らないとおっしゃるんですもの、知っていますのに。
 アリクス(大きい児、九歳)――いいえ、お知りになりませんわ。
 声の母――なぜです?
 アリクス――どこでも御本を開いて、中に書いてあることを尋ねてごらん遊ばせ、答えてあげますから、っておっしゃいましたの?
 ――そして?
 ――お答えなさらなかったのです。
 ――であなたは何を尋ねました。
 ――おっしゃったとおりにある所を開きました。そして目についた第一番目の問いを尋ねました。
 ――どういう問いでした?
 ――それからどうなったか[#「それからどうなったか」に傍点]、っていうのでした。
 また、ある寄宿生の持ってる多少美食家の鸚鵡《おうむ》について、次の深い観察がなされたのもここである。
「かわいいこと[#「かわいいこと」に傍点]! 大人のようにジャミパンの上皮だけを食べてるわ[#「大人のようにジャミパンの上皮だけを食べてるわ」に傍点]!」
 七歳の娘の手で忘れないためにあらかじめ書き止められた次の罪の告白が拾われたのも、この修道院の舗石《しきいし》の上においてである。

[#ここから4字下げ]
天の父よ、私は貪欲《どんよく》でありましたことを自ら咎《とが》めまする。
天の父よ、私は姦淫《かんいん》でありましたことを自ら咎めまする。
天の父よ、私は男の方へ目を上げましたことを自ら咎めまする。
[#ここで字下げ終わり]
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