住居から、当時十七歳の聖ベネディクトに追い払われたのは、五二九年のことであった。
いつも跣足《はだし》で歩いて首に柳籠《やなぎかご》をつけ決してすわることをしないカルメル山の修道女らの規則に次いで、最も厳格な規則は、マルタン・ヴェルガのベルナール・ベネディクト修道女らのそれである。彼女らは黒い着物をつけて、胸当てをしているが、その胸は聖ベネディクトの特別な命によって、※[#「丿+臣+頁」、第4水準2−92−28]《あご》の所まで上せてある。広袖《ひろそで》のセルの上衣、毛糸の大きな面紗《かおぎぬ》、胸の上に四角に截《た》たれて※[#「丿+臣+頁」、第4水準2−92−28]まできてる胸当て、目の所まで下ってる頭被、そういうのが彼女らの服装である。すべて黒であるがただ頭被だけは白である。修練女は同じ着物のまっ白なのをつけている。誓願修道女はなおそのほかに大念珠を脇《わき》につけている。
マルタン・ヴェルガのベルナール・ベネディクト修道女らは、いわゆるサン・サクルマンの女たちというベネディクト修道女らのように、常住礼拝を実行するのである。後者は今世紀の初めに、タンプルに一つとヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ街に一つとの二つの建物をパリーに持っていた。けれどもここに述べるプティー・ピクプュスのベルナール・ベネディクトの女たちは、ヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ街やタンプルなどの修道院にはいってるサン・サクルマンの女たちとは、全く別な一派であった。規則にも多くの違いがあり、服装にも多くの違いがあった。前者は黒い胸当てをつけていた。後者は白の胸当てをつけた上になお、鍍金《めっき》の銀か鍍金の銅かの高さ三寸ばかりの聖体を胸につけていた。前者はその聖体をつけていなかった。常住礼拝は両者共通であったが、それでも両者は全く別々のものだった。サン・サクルマンの女たちとマルタン・ヴェルガの女たちとの間の似たところは、ただ常住礼拝を実行してるという点のみだった。あたかも、フィリップ・ド・ネリによってフロレンスに建てられたイタリーのオラトアール派と、ピエール・ド・ベリュールによってパリーに建てられたフランスのオラトアール派とが、イエス・キリストの降誕と生涯《しょうがい》と死と聖母とに関するすべての神秘の研究崇拝において似寄っていながら、なお非常に違っていて、時としては敵とまでなるのと同じであった。フィリップ・ド・ネリは一個の聖者のみであり、ベリュールは枢機官であったから、パリーのオラトアール派はいつも上位を主張していた。
さてマルタン・ヴェルガのスペインふうの厳重な規則に立ち戻ってみよう。
この分院のベルナール・ベネディクト修道女らは、一年中少しの粗食しか取らず、四旬節および彼女らに特別な他の多くの日に断食をし、毎日寸眠の後に午前の一時から三時まで起き上がって日課の祈祷書《きとうしょ》をよみ朝の祈祷を歌い、四季ともに藁《わら》のふとんの上にセルの毛布にくるまって寝、決して湯にはいらず、決して火をたかず、毎金曜日には苦行をし、沈黙の規定を守り、ごく短い休息の間にしか口をきかず、十字架|闡揚《せんよう》記念日である九月十四日から復活祭まで六カ月の間荒毛のシャツを着る。その六カ月間というのは一つの軽減であって、規則には一年中となっている。けれども、荒毛のシャツは夏の炎熱にはとうていたえられないものであって、熱病や神経痛などを起こすことがあったので、その使用に少し制限を加えねばならなかったのである。しかしその軽減をもってしても、修道女らが九月十四日にそのシャツを着る時には、三、四日は熱を出すのが常である。服従、困窮、貞節、囲壁中の永住、それが彼女らの誓いであって、またそれは規則によっていっそう重くなされている。
修道院長は、集会で発言権を有するので声の母[#「声の母」に傍点]と言われる長老らによって、三年間の期限で選挙される。院長は二度の再選を受け得るのみであって、そのために一院長の最長年限は九年となるのである。
彼女らは決して男の祭司の姿を見ない。男の祭司はいつも、七尺の高さに張られてるセルの幕で隠されている。説教の時に、その礼拝堂の中に男の説教師がいる時には、彼女らは面紗《かおぎぬ》を顔の上に引き下げる。それからいつも低い声で話し、目を伏せ頭をたれて歩かなければならない。その修道院の中に自由にはいり得るただ一人の男性は、教区の長の大司教ばかりである。
否そのほかにも一人いる。すなわち庭番である。けれどもそれは常に老人であって、また絶えず庭に一人きりでいるために、そして修道女らがそれと知って避けるようにするために、膝《ひざ》に一つの鈴がつけられている。
彼女らは絶対的盲従をもって院長の命に服する。それはあらゆる克己をもってする聖典的服従である。すなわち、キリストの声に対するがごとく[#「キリストの声に対するがごとく」に傍点]、その身振りその最初の合い図において[#「その身振りその最初の合い図において」に傍点]、直ちに幸福と堅忍とある盲従とをもって[#「直ちに幸福と堅忍とある盲従とをもって」に傍点]、職人の手のうちにある[#「職人の手のうちにある」に傍点]鑪《ろ》のごとく[#「のごとく」に傍点]、であり、またいかなるものも特別なる許しあるに非ざればこれを読みもしくは書くことを得ざるなり[#「いかなるものも特別なる許しあるに非ざればこれを読みもしくは書くことを得ざるなり」に傍点]、である。
彼女らは各自順番に、彼女らのいわゆる贖罪[#「贖罪」に傍点]をなす。贖罪《しょくざい》というのは、あらゆる悪、あらゆる過失、あらゆる放肆《ほうし》、あらゆる違犯、あらゆる不正、あらゆる罪悪、すべて地上において犯さるるものに対する祈りである。午後の四時から午前の四時まで、あるいは午前の四時から午後の四時まで、引き続いて十二時間の間、贖罪[#「贖罪」に傍点]を行なう修道女は両手を合わせ、繩を首にかけ、聖体の前に石の上にひざまずいている。疲労にたえなくなる時には、腕を十字に組み顔を床《ゆか》につけて、腹ばいに平伏する。それが唯一の緩和である。そういう姿勢で、世のあらゆる罪人のために彼女は祈る。それは実に荘厳とも言えるほどに偉大である。
かかることが、上に大|蝋燭《ろうそく》の一本ともっている柱の前で行なわれる時、全く区別なくあるいは贖罪[#「贖罪」に傍点]をなすとも言われあるいは柱に[#「柱に」に傍点]就《つ》く[#「く」に傍点]とも言われる。けれども第二の言い方は、苦行と卑下との意味を多く含んでいるので、修道女らが謙譲の心からして好んで口にするところのものである。
贖罪をなす[#「贖罪をなす」に傍点]ことは、全心をこめた一つの勤めである。柱に就いた修道女は、背後に雷が落ちようともふり返りもしない。
そのほかになお、聖体の前には常にひざまずいている修道女が一人いる。その時間は一時間としてある。彼女らは上番する兵士のように規律正しく交代する。そこに常住礼拝がある。
院長や長老たちは、たいていきまって特に重々しい響きの名前を持っている。それは聖者や殉教者らに関連した名前ではないが、イエス・キリストの生涯《しょうがい》の各時期に関連したもので、たとえば、ナティヴィテ長老(降誕)、コンセプシオン長老(受胎)、プレザンタシオン長老(奉献)、パッシオン長老(受難)などのように。けれども、聖者にちなんだ名前も禁じられてるのではない。
修道女らに会う時には、ただその口だけしか見られない。皆黄色い歯をしている。決して楊枝《ようじ》はこの修道院に入れられない。歯を磨くことは滅落の淵に臨むことである。
彼女らは何物に対しても私の[#「私の」に傍点]という言葉を使わない。自分のものというのは何もなく、また何物にも執着してはいけないのである。彼女らはすべてを私どもの[#「私どもの」に傍点]という。私どもの面紗《かおぎぬ》、私どもの念珠。自分の着ているシャツのことでも私どものシャツ[#「私どものシャツ」に傍点]と言うに違いない。時としては、祈祷《きとう》書だの遺物だの聖牌《せいはい》だの何かちょっとしたものに愛着することがある。けれどもそれに愛着し初めたことを気づいた時には、直ちにそれを捨てなければならない。彼女らは聖テレサの言葉を記憶していた。ある貴婦人が聖テレサの修道会にはいる時に、「私がごく大事にしています聖書を家に取りにやることを許して下さいませ、」と言った時、聖テレサは答えた。「あああなたは何かを大事にしていらっしゃるのですか[#「あああなたは何かを大事にしていらっしゃるのですか」に傍点]。それならば私どもの仲間におはいり下さいますな[#「それならば私どもの仲間におはいり下さいますな」に傍点]。」
閉じこもること、そして自分の所[#「自分の所」に傍点]を持ち自分の室[#「自分の室」に傍点]を持つこと、それはすべての者に禁じられている。彼女らはうち開いた分房にはいっている。互いに出会う時には、一人が言う「祭壇の聖体に[#「祭壇の聖体に」に傍点]頌讃《しょうさん》と礼拝とがありまするよう[#「礼拝とがありまするよう」に傍点]。」すると、も一人は答える、「永遠に[#「永遠に」に傍点]。」また一人が他の者の分房を訪れる時にも、同じようなあいさつをする。扉《とびら》に人の手が触れると、向こうから急いで言われるやさしい声が聞こえる、「永遠に!」。あらゆる実際的仕事と同じく、それも習慣のために機械的になっている。そして一人がかなり長い「祭壇の聖体に頌讃と礼拝とがありまするよう[#「祭壇の聖体に頌讃と礼拝とがありまするよう」に傍点]」を言ってしまわぬうちに、も一人のが「永遠に[#「永遠に」に傍点]」を言うことも時々ある。
訪問会の修道女の間では、訪れて来る者は「アヴェ[#「アヴェ」に傍点]・マリア[#「マリア」に傍点]」と言い、訪れを受ける者は「グラティア[#「グラティア」に傍点]・プレナ[#「プレナ」に傍点]」と言う([#ここから割り注]訳者注 両者合して、めでたしマリアよ恵まるる者よ云々の祈祷[#ここで割り注終わり])。それが彼女らの「今日は」であって、実際「恵まれたる」今日はである。
各時間には、修道院の会堂の時の鐘に加えて三つ補助の鐘が鳴らされる。それを合い図にして、院長も、声の母も、誓願女も、助修道女も、修練女も、志願女も、一様に話をやめ仕事をやめ考えをやめて、皆同時にきまりの祈りを言う。たとえば五時であると「五時にまたそれぞれの時間に[#「五時にまたそれぞれの時間に」に傍点]、祭壇の聖体に頌讃と礼拝とがありまするよう[#「祭壇の聖体に頌讃と礼拝とがありまするよう」に傍点]!」八時であると「八時にまたそれぞれの時間に云々[#「八時にまたそれぞれの時間に云々」に傍点]。」そういうふうに各時間に従って言うのである。
自分の考えをやめて常に神を思わせるのを目的としたこの習慣は、他の多くの修道会にもある。ただその言葉は種々違っている。たとえばアンファン・ゼジュ会では言う、「ただ今の時間にまたそれぞれの時間に[#「ただ今の時間にまたそれぞれの時間に」に傍点]、イエスの愛は私の心をあたため下さいまするよう[#「イエスの愛は私の心をあたため下さいまするよう」に傍点]!」
今より五十年前にプティー・ピクプュスの修道院にいたマルタン・ヴェルガのベネディクト・ベルナールの修道女らは、重々しい聖詩唱歌の調子で、純粋な平音楽で、そしていつも勤めの間引き続いたいっぱいの声で、すべての祭式を歌っていた。弥撒《ミサ》の書に星印がある所では、ちょっと歌をやめて「イエス[#「イエス」に傍点]・マリア[#「マリア」に傍点]・ヨセフ[#「ヨセフ」に傍点]」と低音に言う。死人の祭式には、女声の最低の音で歌うので、いかにも悲痛な効果をきたす。
プティー・ピクプュスの修道女らは、会員の墓として主祭壇の下に窖《あなぐら》を持っていた。けれども彼女らのいわゆる政府[#「政府」に傍点]は、その窖へ
前へ
次へ
全58ページ中39ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング