性質のうちにある受動的なものを注ぎ込んでしまっていた。その上、これはわれわれが何度もこれから認めることであるが、彼女は自分でもよく知らないうちに、数奇な運命とその老人の不思議な様子とになれてしまっていた。それからまた彼女は、その老人といっしょにさえいれば自分は安全だと思っていた。
ジャン・ヴァルジャン自身も、コゼットと同じく、実はどの方面へ今進んでるかを知らなかった。コゼットが彼に身を託しているように、彼は神に身を託していた。彼もまた、自分より偉大な何者かの手にすがってるような気がしていた。だれか目に見えない者が自分を導いていてくれるように感じていた。それに彼は、何らはっきりした考えも、何らの計画も考案も持ってはいなかった。あの男がジャヴェルであったかどうかも確かでなければ、またジャヴェルであったにしろ、自分がジャン・ヴァルジャンであることを知ってたかどうかも、確かでなかった。彼は仮面をかぶっていたではないか、彼は死んだと信じられていたではないか。けれども確かに、数日来変なことが起こっていた。彼にはもうそれで十分であった。もうゴルボー屋敷へは帰るまいと彼は決心していた。あたかも巣窟《そうくつ》から狩り出された獣のように、永住し得る場所を見いだすまで一時身を隠す穴をさがしていた。
ジャン・ヴァルジャンはムーフタールの一郭のうちにある種々な入り組んだ小路を歩き回った。その辺は中世紀の規律をまだ保って消燈規定の下にあるかのように、もうすっかり寝静まってしまっていた。彼は賢い策略をもって、サンシエ街やコポー街を、バトアール・サン・ヴィクトル街やブュイ・レルミット街を、いろんなふうにあわせ用いた。そのあたりにはいくらか木賃宿もあったが、適当なのが見当たらないので中にはいってもみなかった。よしだれか自分の跡をつけていた者があったにしても、もうその男をまいてしまったに違いないと信じていた。
サン・テティエンヌ・デュ・モン教会堂で十一時が鳴った時、ポントアーズ街十四番地にある警察派出所の前を彼は通った。それから間もなく彼は、前に述べたような一種の本能からふり返ってみた。その時、派出所の軒燈のために照らし出された三人の男の姿がはっきり見えた。彼らはかなり近く彼のあとをつけていて、街路の影の方のその軒燈の下を次々に通って行った。その一人は派出所の門のなかへはいって行った。けれど先頭に立ってる男は明らかに疑わしいと彼には思えた。
「早くおいで。」と彼はコゼットに言った。そして急いでポントアーズ街を離れた。
彼は円形を描いて、もう遅いのでしまってるパトリアルシュの通路を回り、エペ・ド・ボア街からアルバレート街へと進み、ポスト街へはいり込んだ。
そこに一つの四つ辻《つじ》があった。今日ロラン中学のある所で、ヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ街が交差してる所である。
(言うまでもなく、このヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ街――新サント・ジュヌヴィエーヴ街――は古い街路であって、またポスト街――郵便街――の方は十年に一度も郵便馬車さえ通ったことのないくらい寂しい街路である。ポスト街は十三世紀に瀬戸物屋などが住んでいた所で、その本当の名前はポー街――壺街《つぼがい》――というのである。)
月はその四つ辻に強い光を投げていた。ジャン・ヴァルジャンはそこのある戸口に身を潜めた。もしあの男らが自分のあとをまだつけているのなら、その明るみを通る時にきっとよく見えるに違いない、と推測したのだった。
果して、三分とたたないうちに、彼らの姿が現われた。四人になっていた。皆背の高い男で、長い褐色のフロックを着て、丸い帽子をかぶり、手には太い杖を持っていた。その大きな身体と大きな拳《こぶし》とは、暗やみの中のすごい歩き方とともに気味悪いものであった。四個の怪物が市人に化けたようなありさまだった。
彼らは四つ辻のまんなかに立ち止まって、何か相談するように一群になった。決心のつかぬ様子をしていた。彼らの首領とも思える一人の男がふり返って、ジャン・ヴァルジャンがはいりこんだ方向を右手で強くさし示した。も一人の男は頑強《がんきょう》に反対の方向をさし示したらしかった。第一の男が向き直った瞬間に、月の光がその顔をすっかり照らし出した。ジャン・ヴァルジャンは十分にジャヴェルの顔を認めた。
二 幸運なるオーステルリッツ橋の荷車
ジャン・ヴァルジャンにとっては、もはや疑う余地はなかった。しかし幸いにも四人の男の方にはまだ疑念があった。彼は四人が躊躇《ちゅうちょ》してるのを利用した。彼らには損失の時間だったが、彼には儲《もう》けの時間だった。彼は潜んでいた戸口から出て、ポスト街を植物園の方へ進んでいった。コゼットは疲れてきた。彼はコゼットを両腕にとり上げて、抱いて歩いた。一人の通行人もなく、月夜のために街燈もともされていなかった。
彼は足を早めた。
数歩進むと、瀬戸物屋ゴブレの店の所に達した。その家の前面には、次のような古い文句が月の光ではっきり読まれた。
[#ここから4字下げ]
ゴブレ息子《むすこ》の工場はここじゃ。
甕《かめ》、壜《びん》、花瓶《かびん》、管、煉瓦《れんが》、
何でも望んでおいでなされ。
お望みしだいに売りますじゃ。
[#ここで字下げ終わり]
彼はクレー街を後ろにして、次にサン・ヴィクトルの泉の所を通り、植物園に沿って低い街路を進み、そして川岸まで達した。そこで彼はふり返ってみた。川岸にも街路にも人影はなかった。自分の後ろにはだれもいなかった。彼は息をついた。
彼はオーステルリッツ橋にさしかかった。
当時はなお橋銭の制度があった。
彼は番人の所へ行って一スー渡した。
「二スーだよ。」と橋番の老人は言った。「歩けるくらいの子供を抱いていなさるから、二人分払いなさい。」
彼はそこを通って手掛かりを残しはすまいかと心配しながら金を払った。逃げるには潜み行くようにしなければいけないものである。
ちょうどその時一台の大きな荷車が、彼と同じくセーヌ川を右岸の方へ渡っていた。それは彼に利益だった。彼はその荷車の影に隠れて橋を通ることができた。
橋の中ほどにきた時、コゼットは足が麻痺《しびれ》たから歩きたいと言った。彼はコゼットを下におろして、またその手を引いた。
橋を渡り終えると、前方に少し右手に当たって建築材置き場が見えた。彼はそこへ進んで行った。そこまで行くには、月に照らされたうち開けた場所をかなり歩かねばならなかった。が彼は躊躇《ちゅうちょ》しなかった。追っかけてきてた者らは確かに道を迷って、自分はもう危険の外に脱していると、彼は信じていた。まださがされてはいるだろうが、もうあとをつけられてはすまい。
小さな街路、シュマン・ヴェール・サン・タントアーヌ街が、壁に囲まれた二つの建築材置き場の間に通じていた。その街路は狭く薄暗くて、特に彼のために作られてるかのようだった。彼はそれにはいり込みながら、後ろをふり返ってながめた。
そこから彼は、オーステルリッツ橋をすっかり見通すことができた。
四個の人影が橋にさしかかってるところだった。
それらの人影は植物園を背にして、右岸の方へこようとしていた。
その四つの人影こそ、あの四人の男であった。
ジャン・ヴァルジャンは再び捕えられた獣のように身を震わした。
ただ一つの希望が残っていた。すなわち自分がコゼットの手を引いて月に照らされた空地《あきち》を通った時には、たぶん四人の男はまだ橋にさしかかっていず、自分の姿を認めなかったであろう。
果してそうだとすれば、前にある小路にはいり込み、建築材置き場か野菜畑か畑地か建物のない空地かに出て、逃げのびることもできるに違いない。
今はそのひっそりした小路に身を託すことができるように彼には思えた。彼はその中に進んでいった。
三 一七二七年のパリーの地図
三百歩ばかり行った時、ジャン・ヴァルジャンは街路の分岐点に達した。いずれも斜めに右と左との二筋に分かれていた。彼の前にはちょうどYの二本の枝のような通りがあった。いずれを選ぶべきか?
彼は躊躇《ちゅうちょ》しなかった、右を選んだ。
なぜか?
左の枝は郭外の方へ、言い換えれば人の住んでる場所の方へ通じていたが、右の枝は田舎の方へ、言い換えれば人のいない場所の方へ通じていたからである。
けれども二人はもう早く歩いてはいなかった。コゼットの足はジャン・ヴァルジャンの歩みをおくらしていた。
彼はまたコゼットを抱き上げた。コゼットは彼の肩の上に頭をつけて、一言も口をきかなかった。
彼は時々ふり返ってはながめた。やはり注意して街路の薄暗い方をたどった。街路は後ろにまっすぐに見えていた。最初二、三度ふり返った時には何にも見えず、ただひっそりとしていたので、少し安心して歩行を続けた。それからまたしばらくしてふり返ってみると、今自分が通ってきたばかりの街路に、遠くやみの中に何か動いてるものが目についたような気がした。
彼はただ前方へ、歩いて行ったというよりむしろ突進して行った。ある横丁を見付けて、そこから逃げ出し、も一度あとをくらますつもりだった。
彼は一つの壁に行き当たった。
けれどもその壁は行き止まりにはなっていなかった。それは、今彼が歩いてきた街路に続いてる横通りの壁だった。
そこでまた彼は心を決めなければならなかった、右へ行くか、左へ行くかに。
彼は右の方をながめた。小路は小屋や物置きなどの建物の間に細長く続いていて、その向こうは行き止まりになっていた。その袋町の底もはっきり見えていた、大きな白い壁が。
彼は左の方をながめた。そちらの小路は開けていた。そして約二百歩ばかり向こうには、その小路が通じてる街路が見えていた。安全なのはその方であった。
彼はその小路の向こうに見えてる街路に出ようと思って、左へ曲がろうとした。その時、彼が出ようとしてる街路とその小路との落ち合ってる角《かど》の所に、じっとして動かない黒い立像のようなものが見えた。
それはだれか一人の男で、明らかにそこに見張りにやってきて、通路をふさいで待っていたのである。
ジャン・ヴァルジャンはあとにさがった。
ジャン・ヴァルジャンがいたパリーのその一地点は、サン・タントアーヌ郭外とラーペの一郭との間であって、その後の工事のために今は全くありさまが変わってる場所の一つである。ある者はそれを醜化だと言い、ある者はそれを面目一新だと言うが、とにかく変わってしまった。畑地や建築材置き場や古い建物はもうなくなってしまっている。今日ではそこに、新しい大通りがあり、演芸場や曲芸場や競馬場があり、停車場があり、マザスの監獄がある。その懲罰機関までそなえて、なるほど進歩である。
翰林院《かんりんいん》を四国院[#「四国院」に傍点]と呼びオペラ・コミック座をフェードー座[#「フェードー座」に傍点]と呼び続ける伝統本位の普通の俗語では、ジャン・ヴァルジャンがたどりついたその場所は、半世紀前まではプティー[#「プティー」に傍点]・ピクプュス[#「ピクプュス」に傍点]と呼ばれていた。サン・ジャック門、パリー門、セルジャン門、ポルシュロン、ガリオート、セレスタン、カプュサン、マイュ、ブールブ、アルブル・ド・クラコヴィー、プティート・ポローニュ、プティー・ピクプュス、そういうのが新しいパリーのうちに残ってる古いパリーの名前である。民衆の記憶はそれらの過去の残物の上に漂っている。
それにプティー・ピクプュスは、単に輪郭ばかりでほとんど形をそなえたこともなかったので、スペインの町の修道院みたいな面影を持っていた。道路には舗石《しきいし》もよく敷いてなく、街路には人家もまばらであった。これから述べる二、三の街路を除いては、すべて壁ばかりで寂寞《せきばく》たるものだった。商店もなければ、馬も通らなかった。ようやく所々に窓から蝋燭《ろうそく》の光が見えてるのみで、燈火《あかり》はすべて十時には消されてしまった
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