彼を二階の室に導いた。特別にりっぱな室で、マホガニー製の家具が備えてあり、船型寝台と赤いキャラコの帷《とばり》とがついていた。
「これはいったい何ですか。」と旅客は言った。
「私どもの結婚の時の室でございます。」と主人は言った。「今では私ども二人は他の室に寝るようにしています。一年に三四度しかだれもはいらないのです。」
「私には廐でも同じだったのに。」と男は無造作に言った。
 テナルディエはそのあまり愛想のない言葉を耳にしなかったようなふうをした。
 彼は暖炉の上に出てる新しい二本の蝋燭に火をともした。炉の中にはかなりよく火が燃えていた。
 暖炉棚の上にはガラス器の中に、銀糸とオレンジの花とのついた女の帽子が一つあった。
「そしてこれは、何ですか。」と男は言った。
「旦那《だんな》、それは家内が結婚の時の帽子でございます。」とテナルディエは答えた。
 旅客はそれをながめたが、「ではあの怪物にも処女の時代があったのかな、」とでもいうような目つきだった。
 だがテナルディエは嘘《うそ》を言ったのである。その家を借りて飲食店にしようとした時から、室《へや》は今のとおりであった。彼はそれらの家具やオレンジの花の中古の帽子などを買い取った。それによって「自分の配偶者」には優雅な光がそうことになり、そうしておけばこの家もイギリス人のいわゆるりっぱな体面をそなえることになると、彼は考えたのであった。
 旅客がふり返った時には、亭主はもうそこにいなかった。テナルディエは翌朝うまく金をしぼり取ってやるつもりのその男には不遠慮な親しい待遇をしないがいいと思って、あいさつもせずにひそかに逃げ出してしまったのである。
 亭主は自分の室に退いた。女房は床《とこ》についていたが、眠ってはいなかった。亭主の足音が聞こえた時彼女はふり向いて言った。
「私|明日《あした》になったらコゼットをたたき出してしまいますよ。」
 テナルディエは冷ややかに答えた。
「そうか。」
 彼らはその他の言葉をかわさなかった。やがて蝋燭《ろうそく》は消された。
 旅客の方では、室の片すみに杖と包みとを置いた。亭主が出て行くと、肱掛椅子《ひじかけいす》にすわってしばらく考え込んだ。それから靴をぬぎ、蝋燭の一本を手に取り一本を吹き消し、扉《とびら》を押し開き、何かをさがすようなふうであたりに目を配りながら室を出て行った。廊下を通って階段の所へ達した。そこで、子供の息のようなきわめて静かな小さな音を耳にした。その音に引かれて彼は、階段の下に作られてる――というよりもむしろ階段でできてる一種の三角形の押し入れみたいな所へやってきた。それは階段の下のすき間にすぎなかった。そこに、古かごや古びんなどの間に、ほこりや蜘蛛《くも》の巣などの中に、一つの寝床があった。もっとも寝床と言っても、穴があいて中の藁《わら》が見えている蒲団《ふとん》と、下まで見通せるほど穴だらけの掛け物とにすぎなかった。敷き布もなかった。そして、それだけのものが床石《ゆかいし》の上にじかに置かれていた。その寝床の中に、コゼットが眠っていた。
 男はそこに近づいて、彼女をながめた。
 コゼットは深く眠っていた。着物もきたままだった。冬には、なるべく寒くないように着物もぬがないで眠るのであった。
 彼女はしっかと人形を抱きしめていた。人形の大きく開かれた目はやみの中に光っていた。時々彼女は目をさましかかってるように大きなため息をもらしては、ほとんど痙攣的《けいれんてき》に人形を腕に抱きしめた。寝床のそばにはただ片方の木靴《きぐつ》があった。
 コゼットの寝てる物置きのそばに一つの扉《とびら》が開いたままになっていて、そこからかなり広い薄暗い室《へや》が見えていた。男はそこにはいって行った。奥の方に、一つのガラス戸を通して、一対の小さなまっ白な寝床が見えていた。アゼルマとエポニーヌとの寝床であった。その向こうに柳の枝でできた帷《とばり》なしの揺籃《ゆりかご》が半ば見えていた。中には、その晩、始終泣き通しにしていた小さい男の児が眠っていた。
 男はその室がテナルディエ夫婦の寝てる室に続いていることを察した。そして引き返そうとした時、彼の目はそこの暖炉の上に落ちた。それはよく宿屋に見受けられる大きなやつで、火がある時でもきまってごくわずかであって、見ても寒そうに思われるものだった。今その暖炉には、火もなければ灰さえもなかった。けれども男の注意を引くものがそこにあった。それはかわいらしいかっこうの大小二つの子供靴だった。クリスマスの晩暖炉の中に履物《はきもの》を置いておいて、親切なお爺《じい》さんがりっぱな贈物を持ってきてくれるのを暗やみのうちに待つという、あのおもしろい古くからの子供の習慣を、彼はその時思い出した。エポニーヌとアゼルマとはそのことを忘れないで、めいめい自分の靴を片方ずつ暖炉の中に置いていたのである。
 男は身をかがめてのぞいてみた。
 親切なお爺さんは、すなわち母親は、既にやってきたと見えて、両方の靴の中にはそれぞれ、新しいりっぱな十スー銀貨が光っていた。
 男は立ち上がって去ろうとした。その時彼は、炉の奥の方の暗いすみっこの影に、も一つ何かがあるのを認めた。よく見るとそれは木靴だった。ぶかっこうな醜い木靴で、半ばこわれかかっていて、かわいた泥と灰とにまみれていた。コゼットの木靴だった。コゼットはいくらだまされても決して気を落とさない子供心のいじらしい信頼で、暖炉の中に自分も木靴を置いたのであった。
 絶望のほかは何事も知らなかった子供のうちにもなお残っているその希望こそ、崇高なまた優しいものではないか。
 その木靴の中には何にもはいっていなかった。
 男は胴着の中をさぐり、身をかがめ、コゼットの木靴の中にルイ金貨を一つ入れた。
 それから彼は抜き足して自分の室《へや》へ戻った。

     九 テナルディエの策略

 翌朝少なくとも夜明けより二時間ぐらい前に、テナルディエは酒場の天井の低い広間で蝋燭《ろうそく》の傍《わき》にすわって、手にペンを執り、黄色いフロックの旅客への請求書をしたためていた。
 女房はそばに立ちながら半ば彼の上に身をかがめて、ペンの跡をたどっていた。彼らは一言も言葉をかわさなかった。一方は、深く考え込んでおり、一方は、人の頭から驚くべきものが出現してくるのを見るおりのあの敬虔《けいけん》な嘆賞の念に満たされていた。家の中にはただ一つの物音がしていた。それは雲雀娘《ひばりむすめ》が階段を掃除する音だった。
 およそ十五分もたってから、いくらかの添削をした後、テナルディエは次の傑作をこしらえ上げた。

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  一号室様への請求書
一、夕食       三フラン
一、室代       十フラン
一、蝋燭代      五フラン
一、炭代       四フラン
一、雑用       一フラン
 合計     二十三フラン
[#ここで字下げ終わり]

 右の書き付けのうち雑用というのはまちがって難用[#「難用」に傍点]と書いてあった。
「二十三フラン!」と女房は多少|躊躇《ちゅうちょ》の色を浮かべながら感心して叫んだ。
 あらゆる大芸術家のように、テナルディエはそれでもなお満足してはいなかった。
「なあに!」と彼は言った。
 それはあたかも、ウイン会議においてフランスの賠償金額を定めてるカスルリーグのような調子だった。
「なるほどそうね。それぐらいは相当さ。」と女房は自分の娘たちの面前で男がコゼットに人形を与えたことを考えながらつぶやいた。「それで当たりまえよ。けれどあまり多すぎるようね。払うまいとしやしないかしら。」
 テナルディエは冷ややかに笑った。そして言った。
「いや払うよ。」
 その笑いは、信頼と権威とを明示するものだった。そんなふうにして言われることはきっとそのとおりになるに違いなかった。で女房も言い張らなかった。彼女はテーブルを並べはじめ、亭主は室《へや》の中をあちこち歩き回った。ややあって彼はまたつけ加えて言った。
「こっちは千五百フランの借りがあるんだからな。」
 彼は暖炉のすみに行って腰をかけ、両足をあたたかい灰の上に差し出して考え込んだ。
「ねえ、」と女房は言った、「今日はどうあってもコゼットをたたき出しますよ、よござんすか。あの畜生め! 人形を持ってる所を見ると、私はむかむかしてくる。彼奴《あいつ》をこれから一日でも家に置いとくくらいなら、ルイ十八世のお妃《きさき》にでもなった方がまだましだ。」
 テナルディエはパイプに火をつけ、煙を吹きながらそれに答えた。
「お前から勘定書をあの男に渡してくれ。」
 そして彼は室《へや》から出て行った。
 彼が出てゆくや否や、旅客がはいってきた。
 テナルディエはすぐに客の後ろにまた現われて、女房にだけ見えるようにして半分開いた扉《とびら》の所にじっと立ち止まった。
 黄色い着物の旅客は、杖と包みとを手に持っていた。
「まあこんなにお早く!」と上さんは言った。「もうお発《た》ちですか。」
 そう言いながら彼女は、具合悪そうに勘定書を両手のうちにひねくって、爪《つめ》で折り目をつけていた。その冷酷な顔には、珍しく卑怯《ひきょう》と懸念との影が見えていた。
 どう見ても「貧乏人」としか思われない男にそんな書き付けを出すことが、彼女には何だか不安に思われたのである。
 旅客は何かに心を奪われてぼんやりしてるようだった。彼は答えた。
「ええ、もう発ちます。」
「旦那《だんな》は、」と上さんは言った、「モンフェルメイュに用がおありではないんですか?」
「いや、ただ通りかかったのです。それだけです。……そして、」と彼はつけ加えた、「勘定は?」
 上さんは何とも答えないで、折り畳んだ書き付けを彼に差し出した。
 男はそれをひろげてながめた。しかし明らかに彼の注意は他の方へ向いてるらしかった。
「お上さん、」と彼は言った、「この土地では繁昌《はんじょう》しますかね。」
「どうにか旦那《だんな》。」と上さんは答えながら、男が別に何とも言わないのでぼんやりしてしまった。
 彼女は悲しそうな嘆くような調子で続けて言った。
「どうも、不景気でございますよ。それにこの辺にはお金持ちがあまりありませんのです。田舎《いなか》なもんですからねえ。時々は旦那のような金のある慈悲深い方がおいで下さいませんではね。入費《いりめ》も多うございますし、まああの小娘を食わしておくのだってたいていではございません。」
「どの娘ですか。」
「あの、御存じの小娘でございますよ、コゼットという。この辺では皆さんにアルーエット([#ここから割り注]訳者注 ひばり娘の意[#ここで割り注終わり])と言われていますが。」
「ああなるほど。」と男は言った。
 上さんは続けた。
「百姓ってなんてばかなんでございましょう、そんな綽名《あだな》なんかをつけて。あの児は雲雀《ひばり》というよりか蝙蝠《こうもり》によけい似ていますのに。ねえ旦那、私どもは人様に慈善をお願いすることなんかいたしませんが、自分で慈善をするだけの力はございません。一向もうけはありませんのに、出すことばかり多いんで。営業税、消費税、戸の税、窓の税、付加税なんて! 政府から大変な金を取られますからねえ。それに私には自分の娘どもがいるんですから、他人の子供を育てなければならないというわけもありませんのです。」
 男はつとめて平気を装って口を開いたが、その声はなお震えを帯びていた。
「ではその厄介者を連れていってあげましょうか。」
「だれを、コゼットでございますか。」
「そうです。」
 上さんの赤い激しい顔は醜い喜びの表情に輝いた。
「まあ旦那《だんな》、御親切な旦那! あれを引き受けて、引き取って、連れてって、持ってって下さいまし、砂糖づけにして、松露煮にして、飲むなり食うなりして下さいまし。まあ恵みぶかい聖母様、天の神様、何てありがたいことでございましょう。」
「ではそうしましょう。」
「本当ですか、連れて
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