たち」の人形に手をつけていたのである。
一人の百姓が皇子の大青綬章《だいせいじゅしょう》に手をつけた所を見るロシア女帝の顔も、おそらくそれと等しいありさまを呈するかも知れなかった。
彼女は憤怒にかれた声をしぼって叫んだ。
「コゼット!」
コゼットは大地が足の下で震動したかのように震え上がった。そしてふり返った。
「コゼット!」と上さんはくり返した。
コゼットは人形を取り、恭敬と絶望との様子でそれを静かに下に置いた。それからなお人形から目を離さないで、両手を組み合わした。そしてそれくらいの年頃の子供には言うも恐ろしいことではあるが、その両手をねじり合わした。それから、その日の種々な恐ろしいこと、森の中に行ったことや、水の一杯な桶《おけ》の重かったことや、金をなくしたことや、鞭《むち》をつきつけられたことや、テナルディエの上さんの口から聞いた恐ろしい言葉など、そんなことに会ってもまだ出てこなかったものが今彼女から出てきた、すなわち涙が。彼女はすすり泣きを初めた。
その間にあの旅客は立ち上がっていた。
「どうしたのです。」と彼は上さんに言った。
「わかりませんか。」と上さんは言って、コゼットの足下に横たわってる罪証物件を指で差し示した。
「で、あれがどうしたのです。」と男は言った。
「あの乞食娘《こじきむすめ》が、家の子供の人形に手をつけたんです。」と上さんは答えた。
「それでこんな騒ぎですか!」と男は言った。「あの児が人形で遊んだのがどうしたというんです。」
「あのきたない手で触《さわ》ったんです、」と上さんは言い続けた、「あの身震いが出るほどきたない手で。」
するとコゼットは更に激しくすすり泣いた。
「静かにしないか!」と上さんは叫んだ。
男はまっすぐに表の戸口の方へゆき、それを開いて出て行った。
彼が出て行くと、上さんはその間に乗じて、テーブルの下のコゼットをひどくけりつけた。そのため娘は大声を上げた。
戸はまた開かれた。素敵な人形を両手にかかえて男はそこに現われた。その人形のことは前に言っておいたとおりで、村の子供たちが朝からながめ入っていたものである。男は人形をコゼットの前にすえて言った。
「さあ、これがお前さんのだ。」
彼はここにきて一時間以上にもなるが、その間何やら考えこみながらも、あの玩具屋《おもちゃや》の店がランプや蝋燭《ろうそく》の光でまぶしいほどに照らされて、その宿屋のガラス戸越しにイリュミネーションのように見えているのを、ぼんやり見て取っていたものと思われる。
コゼットは目を上げた。男が人形を持って自分の方へやって来るのを、太陽が近づいて来るのを見るようにしてながめた。これがお前さんのだ[#「これがお前さんのだ」に傍点]という異常な言葉を彼女は聞いた。彼女はその男をながめ、人形をながめ、それからそろそろと後退《あとしざ》りをして、テーブルの下の壁のすみに深く隠れてしまった。
彼女はもう泣きもしなければ、声も立てなかった。じっと息までもつめてるような様子だった。
テナルディエの上さんと、エポニーヌとアゼルマとは、みなそこに立ちすくんでしまった。酒を飲んでた連中までもその手を休めた。室《へや》の中は厳粛な沈黙に満たされた。
上さんは石のようになって黙ったまま、また推測をはじめた。「この爺《じい》さんはいったい何者だろう。貧乏人かしら、大金持ちかしら。きっとその両方かも知れない、と言えばまあ泥坊だが。」
亭主のテナルディエの顔には、意味ありげなしわが寄った。強い本能がその全獣力をもって現われる時に人間の顔の上に寄ってくるしわである。亭主は人形と旅客とをかわるがわる見比べた。彼はあたかも金袋でもかぎ出したかのようにその男をかぎ分けてるようだった。もっともそれはほんの一瞬の間であった。彼は女房の方へ近づいて、低くささやいた。
「あの品は少なくとも三十フランはする。ばかなまねをしちゃいけねえ。あの男の前に膝を下げろよ。」
下等な性質と無邪気な性質とはただ一つの共通点を持っている。すなわち、直ちに掌《たなごころ》を返すがごとき点を。
「さあコゼットや。」とテナルディエの上さんはやさしくしたつもりの声で言った。けれどもそれは意地悪女の酸《す》っぱい蜜《みつ》から成ってる声だった。「人形をいただかないのかい。」
コゼットは思いきって穴から出てきた。
「コゼット、」とテナルディエも甘やかすような声で言った、「旦那《だんな》が人形を下さるんだ。いただけよ。その人形はお前んだ。」
コゼットは一種の驚駭《きょうがい》の情をもって、そのみごとな人形をながめた。その顔はなお涙にまみれていたが、その目は曙《あけぼの》の空のように、喜悦の言い難い輝きに満ちてきた。その時彼女は、「娘よお前はフランスの皇后さまだ、」と突然言われでもしたような感情を覚えていた。
もしその人形にさわりでもしたら、そこから雷《かみなり》でも飛び出しはすまいか、というような気持が彼女はした。
それはある点まで実際のことだった。なぜなら、もしそうしたらテナルディエの上さんが自分をしかりつけはすまいか、また自分を打ちはすまいか、と彼女は考えたのである。
けれども人形に引きつけられる力の方が強かった。彼女はついにその方へ寄って行った。そして上さんの方へふり向いて、こわごわつぶやいた。
「よろしいんでしょうか、お上さん。」
その時の彼女の同時に絶望と恐怖と歓喜とのこもった様子は、いかなる文字をもってしても書き現わすことはできないものだった。
「いいとも!」と上さんは言った。「お前んだよ。旦那がお前に下さるんだから。」
「本当なの、小父《おじ》さん。」とコゼットは言った。「本当なの、私んですか、この奥様は。」
男の目には涙があふれてるらしかった。彼は感情の高潮に達していて、涙を流さないために口もきけないような状態にあるかと思われた。彼はただコゼットにうなずいてみせて、その「奥様」の手をコゼットの小さな手に握らしてやった。
コゼットは急に手を引っ込めた、あたかも奥様[#「奥様」に傍点]の手が彼女の手を焼いたかのように。そして床《ゆか》の上を見つめた。なおその時彼女がひどく舌をつき出したことをも、われわれはつけ加えざるを得ない。それから彼女は突然向き直って、ひしと人形をつかんだ。
「私はこれにカトリーヌという名をつけよう。」と彼女は言った。
コゼットのぼろの着物が、人形のリボンと薔薇色《ばらいろ》のぱっとしたモスリンとに並んで押しつけられてるのはすこぶる異様な様であった。
「お上さん、」と彼女はまた言った、「これを椅子《いす》の上に置いてもようございますか。」
「ああいいよ。」と上さんは答えた。
こんどはエポニーヌとアゼルマとがコゼットをうらやましそうに見ていた。
コゼットはカトリーヌを椅子の上に置いた。それから自分はその前の地面《じべた》にすわって、じっと見入っている様子で黙ったまま身動きもしなかった。
「さあお遊び、コゼット。」と男は言った。
「ええ遊んでるのよ。」と娘は答えた。
天からコゼットの所へつかわされた者のような、その見ず知らずの不思議な男を、テナルディエの上さんはそのとき世に最も憎むべき者のように思った。けれども自分をおさえなければならなかった。彼女は何事にも夫をまねようとしていたので、仮面をかぶることにはよくなれていたが、それでもその時の感情にはほとんどたえ難いものがあった。彼女は急いで自分の娘たちを寝床に追いやった。それからコゼットをも寝かそうとその黄色い着物の男に許可[#「許可」に傍点]を願った。今日は大変疲れていますから[#「今日は大変疲れていますから」に傍点]などと母親らしい様子でつけ加えた。でコゼットは、両腕にカトリーヌを抱いて寝に行った。
上さんは時々、室《へや》の向こうの端の亭主の所へ行った。心を安めるために[#「心を安めるために」に傍点]と自ら言っていた。彼女は亭主とちょっと言葉をかわした。それは大声に言えないだけいっそういら立ったものだった。
「あの糞爺《くそじじい》め! どういう腹なんだろう。ここにやってきて私どもの邪魔をするなんて! あの小さな餓鬼を遊ばしたがったり、人形をやったり、それも、四十スーの値打ちもない犬女郎《いぬめろう》に四十フランもする人形をやったりしてさ! も少ししたら、ベリーの御妃《おきさき》にでも言うように、陛下なんて言い出すかも知れない。正気の沙汰《さた》か、気が狂ったのか、あの変な老耄《おいぼれ》めが。」
「なぜかって、わかってるじゃないか。」とテナルディエは答え返した。「なあに、それが奴《やつ》にはおもしろいんだ! お前にはあの児が働くのがおもしろいように、奴にはあの児が遊ぶのがおもしろいのさ。それはあの男の権利だ。客となりゃあ、金さえ出せば何でも勝手にできるんだからな。あの爺《じい》さんが慈善家だったとしても、それがお前にどうしたというわけはないじゃねえか。もしばか者だったとしたところで、お前に関係したことじゃねえ。何もお前が口を出すことはねえや。向こうには金があるんだからな。」
亭主としての言葉、宿屋の主人としての理論、それはいずれも抗弁を許さないところのものであった。
男はテーブルの上に肱《ひじ》をついて、また何か考え込んだような様子をしていた。商人や馬方などすべての他の旅客らは、少し遠くに身をさけて、もう歌も歌わなかった。彼らは一種の畏敬《いけい》の念をもって男を遠くからながめていた。あんな見すぼらしい着物をつけながら、平気で大きい貨幣をポケットから引き出し、木靴《きぐつ》をはいた小婢《こおんな》に大きな人形を奢《おご》ってやるその男は、確かに素敵なまた恐ろしい爺《じい》さんに違いなかった。
かくて数時間すぎ去った。夜半の弥撒《ミサ》もとなえられ、夜食も終わり、酒飲みの連中も立ち去ってしまい、酒場の戸も閉ざされ、その天井の低い広間にも人がいなくなり、火も消えてしまったが、不思議な男はなお同じ席に同じ姿勢でじっとしていた。時々彼は身をもたしてる肱《ひじ》を右左と変えていた。ただそれだけであった。コゼットが去ってからはもう一言も口をきかなかった。
テナルディエ夫婦だけが、作法と好奇心とからその広間に残っていた。「夜通しあんなふうにしているつもりかしら、」と女房はつぶやいた。午前の二時が鳴った時、彼女はついに閉口して亭主に言った。「私はもう寝ますよ。好きなようになさるがいいわ。」亭主は片すみのテーブルにすわって、蝋燭《ろうそく》をつけ、クーリエ・フランセー紙を読み初めた。
そういうふうにして一時間余りたった。あっぱれな亭主は少なくとも三度くらいはくり返してクーリエ・フランセー紙をその日付けから印刷者の名前まで読み返したが、男は身を動かそうともしなかった。
テナルディエは身体を動かし、咳《せき》をし、唾《つば》を吐き、鼻をかみ、椅子《いす》をがたがたいわしたが、それでも男は身動きもしなかった。「眠ってるのかしら、」とテナルディエは考えた。が男は眠ってるのではなかった。しかし何物も彼の心を呼びさますことはできなかった。
ついにテナルディエは帽子をぬぎ、静かに近寄ってゆき、思い切って彼に言ってみた。
「旦那《だんな》、お休みになりませんか。」
寝ませんか[#「寝ませんか」に傍点]という言葉でも彼にはじゅうぶんな親しいものに思われたかも知れなかった。休む[#「休む」に傍点]という言葉にはぜいたくの気味があって、敬意が含まれてるのだった。それらの言葉は翌朝の勘定書の数字を大きくする不思議な驚くべき性質を持っているのである。寝る[#「寝る」に傍点]室《へや》が二十スーなら、休む[#「休む」に傍点]室は二十フランするのである。
「やあ、なるほど。」と男は言った。「廐《うまや》はどこにありますか。」
「旦那、」とテナルディエは微笑を浮かべて言った、「御案内いたしましょう。」
亭主は蝋燭《ろうそく》をとり、男は包みと杖とを取った。そして亭主は
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