がかわいていたとしてみよ。砲兵は動くことを得て、戦いは朝の六時に初まっていたであろう。そして午後二時には彼の勝利に帰して終わりを告げ、プロシア軍をして戦勢を変転せしむるまでには三時間を余していたであろう。
その敗北についてはナポレオンの方にいかほどの責があるであろうか? 難破の責はその水先案内者に帰せらるるであろうか?
明らかにナポレオンは身体は弱ってはいたが、それとともにまた当時多少精神力の減退をきたしていたのであろうか。戦役の二十年は剣の鞘《さや》とともにその刀身をもそこない、身体とともに精神をもそこなっていたのであろうか。将帥のうちにはおぞましくも老将の面影がたたえていたのであろうか。一言にして言えば、多くの著名な史家の信じたごとく、その天才もかけ初めていたのであろうか。自己の衰弱を自ら隠すために彼は狂暴となったのであろうか。暴挙のうちに心迷ってよろめき初めたのであろうか。将軍の身としては重大なることであるが、彼は危険をも意に介しなくなったのであろうか。行動の巨人とも称し得べきかかる肉体的偉人らのうちには、その天才を近視ならしむる年齢があるのであろうか。思想上の天才は老年もこれを捕うるを得ず、ダンテやミケランゼロのごとき人々にとっては、老いることはすなわち生長することであるのに、ハンニバルやボナパルトのごとき人々にとっては、老いとは萎縮《いしゅく》することであろうか。ナポレオンは勝利に対する直接的知覚を失ったのであろうか。彼はもはや、暗礁を認知せず、係蹄《わな》を察知せず、くずれかかってる深淵の岸を弁別し得ざるに至ったのであろうか。彼は災害をかぎわけるの能力を失ったのであろうか。昔は勝利のあらゆる途を知悉《ちしつ》し、雷電の車上よりおごそかな指をもってそれを指示した彼も、いまやその群がり立ったる軍隊の供奉《ぐぶ》を断崖《だんがい》に導くほど、悲しむべき惑乱のうちにあったのであろうか。彼は四十六歳にして既に最期の狂乱に囚われていたのであろうか。運命の巨大なるその御者も、もはや大なる猪突者《ちょとつしゃ》に過ぎなくなっていたのであろうか?
吾人はそうは考えない。
本戦争についての彼の方略が傑出せるものであったことは、万人の認むるところである。同盟軍の中央を直ちに突き、敵軍中に穴を明け、それを両断し、その一方のイギリス軍をハール方面にしりぞけ、他方のプロシア軍をトングル方面にしりぞけ、ウェリントンとブリューヘルとを二個の破片となし、モン・サン・ジャンを奪い、ブラッセルを占領し、かくてドイツ軍をライン河に圧迫し、イギリス軍を海中に投ぜんとしたのである。ナポレオンにとっては、すべてそれらのことがこの一戦のうちにあった。その後のことは明白であろう。
いうまでもなくわれわれはここにワーテルローの歴史を書かんとするのではない。われわれの語らんとする物語の基礎たるべき場面の一つがこの戦争と関係を有するのではあるが、しかしその歴史がわれわれの題目ではない。その上既にその歴史はでき上がっている、ナポレオンによって一方の見地からと、一群の歴史の大家(ワルター・スコット、ラマルティーヌ、ヴォーラベル、シャラス、キネー、ティエール)によって他の見地からと、堂々と完成されている。われわれはただそれらの歴史家をして争論するままにさしておこう。われわれはただ遠方よりの見物人であり、その平原の一旅人であり、人間の肉をもってこね返されたるその土地の上に身をかがむる探究者であり、しかも皮相をもって事実と誤る探究者に過ぎないかも知れない。われわれは学問の名においても、多くの幻影を必ずや有するその全般の事実に立ち向かうだけの権利を有しない。一つの学説をうち立てるだけの実戦の才も戦術上の能力も有しない。われわれの見るところによれば、ただ一連の偶然事がワーテルローにおいて両将帥を支配したまでである。しかしてその神秘なる被告である運命に関しては、われわれはあの素朴なる判官である民衆と同様な判断をなすのみである。
四 A
ワーテルローの戦いの明らかな観念を得んと欲するならば、地上に横たえたAの大文字を想像すればそれで足りる。Aの左の足はニヴェルの道であり、右の足はジュナップの道であり、両方をつなぐ横棒はオーアンからブレーヌ・ラルーへの凹路《おうろ》である。Aの頂はモン・サン・ジャンであって、そこにウェリントンがいる。左下の端はウーゴモンで、そこにゼローム・ボナパルトとともにレイユがいる。右下の端はラ・ベル・アリアンスで、そこにナポレオンがいる。Aの横棒が右の足と交差している点の少し下がラ・エー・サントである。横棒の中央が、ちょうど勝敗の決した要点である。あの獅子《しし》の像が立てられたのはそこであって、それは期せずして近衛軍の最もりっぱなる勇武の象徴となった。
Aの上方に二本の足と横棒との間に含まれる三角形は、モン・サン・ジャンの高地である。その高地の争奪が戦いの全局であった。
両軍の両翼は、ジュナップの道とニヴェルの道との左右に延びている、そしてエルロンはピクトンに対峙《たいじ》し、レイユはヒルに対峙している。
Aの頂点の後ろ、すなわち、モン・サン・ジャンの高地の背後に、ソアーニュの森がある。
戦地そのものについては、起伏した広い地面であると想像すればよろしい。一つの高みから次の高みが見られ、そしてその起伏はしだいにモン・サン・ジャンの方へ高まってゆき、そこで森に達している。
戦場に相敵対した二個の軍隊は、二人の闘士である。それは一つの取っ組み合いである。互いに相手を投げ出さんとする。彼らは何物にでもしがみつく。藪《やぶ》も一つの足場であり、壁の一角も肩墻《けんしょう》である。よるべき一軒の破屋《あばらや》がないためにも、一個連隊が遁走《とんそう》する。平地のくぼみ、地勢の変化、好都合な横道、森、低谷なども、軍隊と呼ばるるその巨大の踵《くびす》を止め、その退却を抑止することができる。戦場より出る者は敗者である。それゆえに、その責を帯びる長官にとっては、わずかな木の茂みをも調べ少しの土地の高低をも研究するの必要がある。
両将軍は、今日ワーテルロー平原と呼ばるるそのモン・サン・ジャン平原を、細心に研究しておいた。既にその前年よりしてウェリントンは、あらかじめある大戦の準備としてそこを調べておくだけの先見の明を有していた。ゆえに六月十八日、その土地においてそしてその決戦のために、ウェリントンは有利の地位を占め、ナポレオンは不利の地位にあった。イギリス軍は上手《かみて》にあり、フランス軍は下手《しもて》にあった。
一八一五年六月十八日の払暁《ふつぎょう》、ロッソンムの高地に双眼鏡を手にして馬上にまたがったナポレオンの風姿を、ここに描くことはおそらく蛇足《だそく》であろう。人に示されるまでもなく、世人の皆知っているところである。ブリエンヌ士官学校の小さな帽子をかぶったその静平な横顔、その緑色の軍服、星章を隠している白い折り返しのえり、肩章を隠している灰色の外套、チョッキの下に見えている赤い綬章《じゅしょう》の一端、皮の半ズボン、すみずみにNの花文字と鵞《が》の紋とのついた紫びろうどの鞍被《くらおお》いをつけた白馬、絹の靴足袋の上にはいた乗馬靴、銀の拍車、マレンゴーに佩用《はいよう》した剣、すべてそれらの最後の皇帝《シーザー》たる容姿こそ、万人の想像に上るところのものであって、ある人々からは歓呼せられ、ある人々からはきびしき目を向けらるるところのものである。
その姿は長い間|光耀《こうよう》のうちに包まれていた。それは実に、古来多くの英雄が発散して常に多少の間真実をおおい隠すあの一種の伝説的不明瞭に負うところがあったのである。しかし今日はそれを照らす歴史と白日とが現われている。
この光は、歴史は、無慈悲なものである。それはある不思議なまた神聖なものを有していて、まったく光であり、かつまさしく光であるがゆえに、人が光輝をのみ見ていたところに陰影を投ぐることが往々にしてある。それは同一人より二つの異なった姿をこしらえる。一つの姿は他の姿を難じ、その罪を問う。専制君主の暗黒は将帥の光彩と争う。かくて諸民衆の評価のうちにより真実なる尺度が存するのである。侵されたるバビロンはアレクサンデルの価値を減じ、束縛されたるローマはシーザーの価値を減じ、破壊されたるエルサレムはチツスの価値を減損する。暴君自身もやがて暴虐を被る。おのれの姿を止むる暗黒を後に残してゆくことは、人にとって一つの不幸である。
五 戦争の暗雲
この戦いの最初の局面は世人のあまねく知るところである。両軍ともその発端は、不安な不確かなもので、躊躇《ちゅうちょ》せしめ恐れをいだかしむるものであった。しかしフランス軍の方よりもイギリス軍の方がなおさらそうであった。
雨は終夜降りとおした。地面はそのどしゃ降りにこねかえされていた。水は鉢《はち》にたまったように平原の窪地《くぼち》にここかしこたまっていた。ある所では輜重車《しちょうしゃ》は車軸まで泥水につかった。馬の腹帯は泥水をしたたらしていた。もし密集した輜重の雑踏のためまき散らされた小麦や裸麦が、轍《わだち》を埋めて車輪の下敷きにならなかったならば、いっさいの運動は、ことにパプロットの方の谷間の中の運動は、不可能であったろう。
事は初まるのが遅かった。前に説明したとおりナポレオンは、その全砲兵を拳銃《けんじゅう》のごとく手中に握り、戦地のここかしことねらいを定めるのを常としていたので、馬に引かれた砲兵隊が自由に動き回り駆け回り得るまで待つことにしたのである。それには太陽がのぼって地をかわかさなければならなかった。しかし太陽の出るのは遅かった。こんどはアウステルリッツのようにすぐにはゆかなかった。最初の大砲の一発が響いた時、イギリスの将軍コルヴィルは時計をながめて、十一時三十五分であることを確かめた。
戦闘は猛烈に初まった。おそらく皇帝が望んでたより以上猛烈に、ウーゴモンに対するフランス軍の左翼によって開始された。同時にナポレオンは、ラ・エー・サントに向かってキオー旅団を投げつけながら敵の中央を攻撃し、ネーはパプロットによってるイギリス軍の左翼に向かってフランス軍の右翼を突進さした。
ウーゴモンに対する攻撃は多少|佯撃《ようげき》であった。ウェリントンをそこに引きつけて左翼に牽制《けんせい》せんとするのが、その計画であった。もしイギリスの近衛の四個中隊と勇敢なベルギーのペルポンシェル師団とが頑強《がんきょう》に陣地を維持し得なかったならば、その計画は成功していたであろう。がウェリントンはそこに赴援《ふえん》せずして、全援兵としてただ近衛の他の四個中隊とブルンスウィックの一隊とだけをつかわすに止めておくことができたのである。
パプロットに対するフランス軍右翼の攻撃は真剣なものであった。イギリス軍の左翼を敗走せしめ、ブラッセルからの道を断ち切り、あるいはきたるべきプロシア軍の通路をさえぎり、モン・サン・ジャンを強取し、ウェリントンをウーゴモン方面にしりぞけ、それよりブレーヌ・ラルー方面にしりぞけ、更にハール方面に追うこと、それは最も確実なことであった。ただ二、三の事件を外にしては、その攻撃は成功した。パプロットは占領され、ラ・エー・サントは奪取された。
ここに特記すべき一事がある。イギリスの歩兵のうちには、ことにケンプトの旅団のうちには、多くの新兵がいた。それらの若い兵士らは、フランスの恐るべき歩兵に対してきわめて勇敢であった。彼らは無経験のためかえって大胆にやってのけた。ことにみごとな散兵戦を行なった。散兵戦における兵士は、多少各自に開放されて、いわば自ら自分の指揮官となるものである。それらの新兵は、フランス兵に似寄ったある巧妙さと勇猛さとを現わした。その未熟な歩兵は活気を有していた。しかしそれはウェリントンのあまり喜ばないところであった。
ラ・エー・サントの占領後、戦いは混乱をきたした。
その
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