にはヘンクイネス[#「ヘンクイネス」に傍点]という名前が読まれる。それからまた他の名前もある、リオ[#「リオ」に傍点]・マイオルのコンデ[#「マイオルのコンデ」に傍点]、アルマグロ[#「アルマグロ」に傍点](ハバナ[#「ハバナ」に傍点])の侯爵および侯爵夫人[#「の侯爵および侯爵夫人」に傍点]。フランス人の名前もあるが、皆感嘆符のつけられているのは憤怒のしるしである。一八四九年にその壁はまた白く塗り直された。種々の国民がそこで互いに侮辱し合っていたからである。
 手に斧《おの》をつかんでる一つの死体が拾い出されたのは、その礼拝堂の入り口においてだった。その死体は少尉ルグロであった。
 礼拝堂から出てゆくと、左手に一つの井戸がある。中庭には井戸は二つある。しかしこの一方の井戸には釣瓶《つるべ》も滑車もないのはなぜかと、人は怪しむだろう。それはもうだれも水をくむ者がないからだ。なぜもう水をくまないのか。骸骨《がいこつ》が中にはいっぱいはいっているからだ。
 その井戸から最後に水をくんだ者は、ギーヨーム・ヴァン・キルソムという男であった。それはウーゴモンに住んで園丁をやっていた田舎者《いなかもの》だった。一八一五年六月十八日に、彼の家族の者は逃げ出して森の中に隠れてしまった。
 ヴィレル修道院の付近の森は、それらの散りぢりになった不幸な人々を数日数夜かくまった。今日でもなお、燃やされた古い木の幹などの明らかにそれと認めらるる痕跡《こんせき》で、叢林《そうりん》の奥に震えていたあわれな人々の露営の場所が察せらるる。
 ギーヨーム・ヴァン・キルソムは「城の番をするため」にウーゴモンに残って、窖《あなぐら》の中に身を潜めていた。イギリス兵は彼を見いだした。兵士らは彼をそこから引きずり出して、剣の平打ちを食わせながら、そのおびえてる男に種々の用をさした。彼らは喉《のど》がかわいていた。ギーヨームは彼らに水を持ってきた。彼がその水をくんだのが、すなわちその井戸である。水を飲んだ多くの者はそこで最期を遂げた。そして多くの者に末期の水を飲ました井戸の方もまた、死んでしまうことになったのである。
 戦後に、人々は死体を埋めるに忙しかった。死は戦勝にわずらいを与える独特の仕方を持っている。死は光栄に次ぐに疫病をもってする。熱病もまた勝利の付属物である。その井戸はごく深かったので、墳墓にされた。三百人の死体が投げ込まれた。おそらくあまりに急がれたであろう。投げ込まれた者は皆死んでいたかというと、口碑は否と答える。埋没の日の夜、かすかな呼ばわる声が井戸から聞こえたそうである。
 その井戸は中庭のまんなかに見捨てられている。石と煉瓦《れんが》とで半々にできている三つの壁が屏風《びょうぶ》の袖《そで》のように折り曲がって四角な櫓《やぐら》のような形をして、その三方を取り囲んでいる。ただ一方が開いている。水をくんでいたのはそこからである。奥の壁には一種のぶかっこうな丸窓みたようなものが一つある。たぶん砲弾の穴であろう。その櫓《やぐら》ようのものには屋根がついていたが、今はその桁構《けたがまえ》しか残っていない。右手の壁のささえの鉄は十字架の形をしている。身をかがめてのぞくと、目は煉瓦《れんが》の深い円筒の中に吸い込まれてしまう。そこにはいっぱい暗やみがたたえている。井戸のまわりや壁の下の方は、一面に蕁麻《いらくさ》におおわれている。
 井戸の前には、あらゆるベルギーの井戸の縁石をなしているあの大きい青い板石がない。その青い板石の代わりには一本の横木があって、大きな骸骨《がいこつ》に似た節《ふし》くれ立ったごちごちのぶかっこうな丸太が五、六本それに寄せかけてある。釣瓶《つるべ》も鎖も滑車もなくなっている。しかし水受けになっていた石の鉢《はち》はなお残っている。雨水がそれにたまっていて、近くの森の小鳥が時々やってきて水を飲んではまた飛び去ってゆく。
 その廃墟《はいきょ》の中の一軒の農家にはなお人が住んでいる。その家の入り口は中庭に面している。その扉《とびら》には、ゴティック式錠前のりっぱな延板《のべいた》のわきに、斜めにつけられた三葉|※[#「宛+りっとう」、第4水準2−3−26]形《わんけい》の鉄の柄がある。ハンノーヴルの中尉ウィルダが農家のうちに逃げ込もうとしてその柄を握った時に、フランスの一工兵は斧の一撃で彼の手を打ち落とした。
 その家に住んでる家族の祖父というのが、昔の園丁ヴァン・キルソムであった。彼はもうだいぶ前に死んでしまった。半白の髪の一人の女がこう言ってきかせる。「私はあの当時居合わしていました。三歳でした。大きな姉はこわがって泣いていました。私どもは森の中に連れてゆかれました。私は母の腕に抱かれていました。皆は地面に耳をつけて何かきいていました。私の方では大砲の音をまねて、ぼーん[#「ぼーん」に傍点]、ぼーん[#「ぼーん」に傍点]と言っていました。」
 中庭の左手にある門は、前にいったとおり、果樹園に通じている。
 果樹園も恐ろしい様を呈している。
 それは三つの部分にわかたれている、あるいは三場にとも言い得るであろう。第一は庭であり、第二は果樹園であり、第三は森である。その三つの部分は共通の囲いを持っている。すなわち入り口の方は城や農家の建物で、左手は籬《まがき》、右手は壁、そして奥も壁である。右手の壁は煉瓦《れんが》造りで、奥の壁は石造りである。まず第一に庭にはいってゆく。庭は斜面になっていて、すぐり類の灌木《かんぼく》が植えられ、野生の植物がいっぱいはえており、切り石のおおげさな突堤で限られていて、その突堤には二重の脹《ふく》れのある柱の欄干がついている。それはルノートル式以前の最初のフランス式に成った広壮な庭であったが、今日ではすっかり荒廃と荊棘《いばら》とに帰してしまっている。欄干の柱の上には、砲弾のような丸い石がついている。今日なおその台石の上に立っている四十三の欄干が数えらるる。他の欄干は皆草の中にころがっている。ほとんどすべてが銃弾のかすり傷を受けている。一本のこわれた欄干は折られた足のようにして欄基の上に置かれている。
 果樹園より低くなってるその庭のうちに、軽歩兵第一連隊の六人の精兵が突入したのであった。彼らはそこから出ることができず、穴の中の熊《くま》のように襲われ追窮されて、ハンノーヴルの二個中隊との対戦を甘受した。その二個中隊のうちの一個中隊はカラビーヌ銃を持っていた。ハンノーヴル軍はその欄干のまわりに並んで、上から射撃した。六人の精兵らは勇敢にも二百人の敵に向かって、ただすぐりの茂みを掩蔽《えんぺい》として下から応戦し、十五分間ばかりささえたが皆戦死を遂げた。
 数段上がってゆくと、庭から本当の果樹園のうちにはいる。その四角な数ヤードの地面のうちでは、一時間足らずのうちに千五百人の兵士がたおれた。その壁は今なお再び戦争を待ってるかのように見える。種々な高さの所にイギリス兵があけた三十八の銃眼がなお残っている。十六番目の銃眼の前には、イギリスの二つの花崗岩《かこうがん》の墓が据わっている。銃眼は南の壁にしかない。攻撃の主力はそちらからきたのである。その壁は外部は大きな生籬《いけがき》で隠されている。フランス兵はそこにきて、ただ生籬ばかりだと思ってそれを乗り越すと、その先には障害物であり埋伏所である壁があり、その後ろにはイギリスの近衛兵がおり、一時に発火する三十八の銃眼があり、霰弾《さんだん》と銃弾とのあらしがあった。そしてソアイの旅団はそこで粉砕された。かくてワーテルローの本舞台は初まったのである。
 けれども果樹園は占領された。はしごがなかったので、フランス軍は爪でよじ登った。木立ちの中で白兵戦が演ぜられた。草はすべて血に染まった。七百人のナッソーの一隊はそこで撃滅された。ケレルマンの砲兵二個中隊が壁に砲火を浴びせたので、その外部は砲弾のためにさんざんになっている。
 いまやこの果樹園もやはり、五月の時を忘れないでいる。きんぽうげやひな菊も咲き、草は高く伸び、農馬は草を食い、洗たく物をかわかす毛繩は木立ちのすき間に張られて、通る人々の頭をかがめさせる。その荒地を歩けば、時々もぐらの穴に足を踏み込む。草の中に、根こぎにされて横たわりながら青々と芽を出してる一本の木が見らるる。ブラックマン少佐がそれに寄りかかって息を引き取った。その隣の大きな木の下では、ナント勅令の廃止のおり亡命したフランスのある家族の出でドイツの将軍をしていたデュプラーが倒れた。すぐそのそばには、一本の病んだ林檎《りんご》の古木が、わらと粘土の繃帯《ほうたい》で包まれて傾いている。ほとんどすべての林檎の樹は老衰のうちに倒れかかっている。銃弾や霰弾を受けていないものは一本としてない。枯木の骸骨《がいこつ》が果樹園の中には数多《あまた》ある。烏が枝の間を飛んでいる。その向こうは、すみれの咲き乱れた森である。
 ボーデュアンは戦死し、フォアは負傷し、火災、殺戮《さつりく》、惨殺、英独仏の兵士らの血は猛烈な混戦のうちに川となって流れ、井戸は死屍《しかばね》をもって満たされ、ナッソーの連隊およびブルンスウィックの連隊は全滅し、デュプラーは戦死し、ブラックマンは戦死し、イギリス近衛兵は大半殺され、フランス軍はレイユ軍団の四十個大隊中二十個大隊を大半失い、三千の兵士らはウーゴモンの破屋《あばらや》のうちだけできられ、突かれ、屠《ほふ》られ、撃たれ、焼かれてしまった。かくてすべてそれらの結果は、今日そこの百姓が旅人に向かって言う、「旦那[#「旦那」に傍点]、三フラン下さい[#「三フラン下さい」に傍点]、ワーテルローのことを話してあげましょう[#「ワーテルローのことを話してあげましょう」に傍点]!」

     三 一八一五年六月十八日

 物語作者の権利の一つとして過去に立ち返り、一八一五年に、しかも本書の第一部において語られた事件の初まる少し前まで、さかのぼってみよう。
 一八一五年六月の十七日から十八日へかけた夜に雨が降っていなかったならば、ヨーロッパの未来は今と違っていたであろう。数滴の水の増減が、ナポレオンの運命を左右した。ワーテルローをしてアウステルリッツ戦勝の結末たらしむるためには、天は少しの降雨を要したのみであって、空を横ぎる時ならぬ一片の雲は、世界を転覆《てんぷく》させるに十分であった。
 ワーテルローの戦いはようやく十一時半にしか初まらなかった。それはブリューヘルに戦いに駆けつけるだけの時間を与えたのである[#「与えたのである」は底本では「与えたのでる」]。なぜ十一時半にしか初まらなかったかといえば、土地が湿っていたからである。砲兵の運動のために、土地が少し固まるのを待たなければならなかった。
 ナポレオンはもとより砲兵の将校であって、その特質をそなえていた。この非凡なる将軍の根本は実に、執政内閣に対するアブーキル戦の報告中に「わが砲弾のあるものは敵兵六人を倒せり[#「わが砲弾のあるものは敵兵六人を倒せり」に傍点]」と言わしめたあの性格であった。彼のあらゆる戦争の方略は砲弾のために立てられていた。ある特点に砲兵を集中させることに、彼の勝利の秘鑰《ひやく》はあった。彼は敵将の戦略をあたかも一つの要塞《ようさい》のごとく取り扱い、そのすき間から攻撃した。霰弾《さんだん》をもって敵の弱点を圧倒し、大砲をもって戦機を処理した。彼の天才のうちには射撃法があった。方陣を突破し、連隊を粉砕し、戦線を破り、集団を突きくずし散乱せしむることは、すべて彼にとってはただ間断なく撃ちに撃つことであった、そして彼はその仕事を砲弾に任した。それは恐るべき方法であって、それが天才に合せらるるや、この不思議なる戦いの闘士をして十五カ年間天下に無敵たらしめたのである。
 一八一五年六月十八日、彼は砲数の優勢を保っていただけになおさら砲兵にまつ所が多かった。ウェリントンが百五十九門の火砲をしか有しなかったのに対して、ナポレオンは二百四十門を有していた。
 仮りに土地
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