も待たなかった。まっくらだったけれど、彼女はその泉にはきなれていたのである。いつも身のささえにする泉の上にさし出た若い樫《かし》の木を、暗やみのうちに左手で探って、その一本の枝を見つけ、それにつかまって身をかがめ、桶《おけ》を水の中につけた。その時彼女は非常に気がたかぶっていて、平素の三倍も力が出ていた。しかるにそうして身をかがめてるうちに、胸掛けのポケットの中のものを泉に落としたのは気がつかなかった。十五スー銀貨は水の中に落ちた。コゼットはそれを見もしなければ、その落ちる音をも耳にしなかった。彼女はほとんど一杯になった桶を引き上げて、それを草の上に置いた。
それをしてしまうと、彼女はすっかり疲れ切ったのを感じた。すぐにも立ち去りたかったけれど、桶に水をくむことにあまり骨折ったので、もう一歩も踏み出す力がなかった。仕方なしにそこにすわってしまった。草の上に身を落として、そのままじっとうずくまった。
彼女は目を閉じた。それからまた目を開いた。なぜか自分でもわからなかったが、他に仕様もなかったのである。
彼女のそばには、桶の中に揺られてる水が輪を描いて、それがブリキの蛇《へび》のように見えていた。
頭の上には煙の壁のような広い黒雲が空をおおうていた。暗やみの陰惨な面が漠然《ばくぜん》と娘の上におおいかぶさっていた。
木星は彼方《かなた》の空に沈みゆこうとしていた。
娘は途方にくれた目をあげて、名も知らぬその大きな星をながめ、そして恐ろしくなった。実際その遊星は、その時地平線のごく近くにあって、たなびいた深い靄《もや》を透かしてみると、恐ろしい赤い色に見えていた。そしてまた変に赤く染められた靄は、その星をいっそう大きく見せていた。ちょうどまっかな傷口のようなさまだった。
寒い風が平野の上を渡っていた。森はまっくらで木の葉のそよぎもなく、夏の間の漠然たるさわやかな明るみもなかった。大きな枝が恐ろしくつき出ていた。やせた変な形の藪《やぶ》が木立ちの薄い所で音を立てていた。高い叢《くさむら》は北風の下に針のようにうごめいていた。蕁麻《いらぐさ》はよじれ合って、餌食《えじき》を求めている爪をそなえた長い腕のようだった。枯れた雑草が風に吹かれてすみやかにわきを飛んでいったが、何か追っかけてくるものを恐れて逃げてゆくがようだった。どこを見ても、ただ広漠《こうばく》たる痛ましいありさまだった。
暗黒は人の心を惑わすものである。人には光が必要である。だれでも昼に相反するものの中に身を投ずる者は、心をしめつけられる思いがする。目に暗黒を見る時、精神は惑わしを見る。日食のうち、夜のうち、文目《あやめ》もわかたぬ暗がりのうちには、最も強い人々にとってさえ不安がある。夜ただ一人森の中を歩いて戦慄《せんりつ》しない者はない。影と木立ち、二つの恐ろしい密層。現実の幻がそのおぼろなる深みのうちに現われてくる。想像にも及ばないものが、スペクトルのごとき明るさで数歩前の所に浮き出してくる。眠れる花の悪夢のごときある漠然《ばくぜん》たる捕捉すべからざるものが、空間のうちにあるいは自分の頭のうちに浮かんでくるのが見える。地平線には恐ろしい姿のものがいる。まっ黒な大きい空洞《くうどう》の気が胸にはいってくる。自分の後ろが恐ろしくなってふり返りたくなる。夜の空虚、荒々しい姿になった事物、進むに従って消散する黙々たる物の横顔、髪をふり乱したようなまっくらなもの、いら立った叢《くさむら》、青白い水たまり、滅亡と悲愁との反映、沈黙の広大な墓場、実際にいるかも知れない見も知らぬ変化《へんげ》、傾いている不思議な木の枝、恐ろしい樹木の胴体、震えている長い雑草の茎、そういうものに対してはだれも身を護る術がない。いかに大胆なる者も、身を震わさぬ者はなく、苦悩の身に迫るのを覚えない者はない。あたかも自分の心が影ととけ合ってるかのように、人はある嫌悪《けんお》すべきものを感ずる。そしてかく心の底まで暗黒に浸されることは、ことに子供にとっては名状すべからざる陰惨の気を与うるものである。
森は天の黙示である。そして小さな霊魂の翼の羽ばたきも、その奇怪な森の円天井の下にあっては、臨終の苦悶《くもん》の音を発する。
何を感じているのかコゼットは自分でもよくわからなかったが、ただ自然の広大な暗黒からつかまれてるような気がした。彼女をとらえているものはもはや単に恐怖のみではなかった。恐怖よりもなお恐ろしい何かであった。彼女は震え上がった。彼女を心の底まで凍らしたその戦慄はいかに異常なものであったか、それを言い現わすには言葉も到底および難い。彼女の目は凶暴になっていた。彼女は翌日もきっと、また同じ頃にそこに戻ってこないではおれないだろうというような気がしていた。
その時一種の本能から、その訳のわからないしかし恐ろしい不思議な状態からのがれるために、彼女は大きい声で、一、二、三、四、と十まで数え初めた。そしてそれが終わるとまた初めからくり返した。そのために彼女はようやく周囲の事がらの本当のありさまを感ずることができた。水をくむ時にぬらした手に寒さを感じた。彼女は立ち上がった。するとまた恐ろしくなってきた。おさえることのできない自然の恐怖の念がまた襲ってきた。彼女はもうただ一つの考えきり持たなかった。逃げ出すこと。森を通りぬけ、野を横ぎり、人家のある所まで、窓のある所まで、火のともった蝋燭《ろうそく》のある所まで、足にまかして逃げのびること。前にある桶《おけ》が彼女の目についた。彼女は非常にテナルディエの上さんを恐《こわ》がっていたので、水の桶をすてて逃げ出すことはなしかねた。彼女は両手に桶の柄をつかんだ。そしてようやくのことでそれを持ち上げた。
そのようにして彼女は十歩余り進んだが、桶は水がいっぱいで重かったので、それをまた地面におろさなければならなかった。彼女はちょっと息をついた。それからまた桶を持ち上げて、再び歩き出したが、こんどは前よりも少し長く歩いた。けれどもやはり立ち止まらなければならなかった。しばらく休んだ後にまた歩き出した。前の方に身をかがめて、頭をたれて、老人のようにして歩いた。桶の重さは、彼女のやせた腕を引っぱり硬《こわ》ばらした。鉄の柄は、彼女の小さなぬれた手を麻痺《まひ》させ凍えさしてしまった。時々彼女は立ち止まらなければならなかった。そして立ち止まるたびごとに、桶からこぼれる冷たい水は彼女の露《あら》わな脛《はぎ》の上に流れた。そしてそれも、森の奥で、夜中に、冬に、人の目を遠く離れた所においてだった。そして彼女はわずか八歳の子供だった。その悲しいありさまをながめていたのは、その時ただ神のみであった。
そしてまたきっと彼女の母も、ああ!
なぜかなれば、墳墓の中で死者の目を開かしめるようなことも世にはあるものである。
彼女は一種の痛ましい嗄《しわが》れた音を立てて息をしていた。すすりなきがこみ上げてきて喉《のど》がつまりそうだった。けれど泣くこともなし得なかった。それほど彼女は、遠くにいてもテナルディエの上さんを恐《こわ》がっていた。テナルディエの上さんがいつも目の前にいるように考えるのは、彼女の習慣となっていた。
彼女はそんなふうで道をはかどることができなかった。彼女は少しずつ進んでいた。立ち止まる時間を少なくし、そのあいだあいだをできるだけ長く歩こうと、いくらつとめてもだめだった。こんなふうではモンフェルメイュまで戻るには一時間以上もかかるだろう、そしてテナルディエの上さんに打たれるだろう、と考えては心を痛めた。そしてその心痛は、夜ただ一人で森の中にいるという恐怖の情に交じっていた。もうすっかり疲れ切っていたのに、まだ森から出てもいなかった。そして、かねて見知っている古い栗《くり》の木のそばまできた時、よく休むために最後に一度少し長く立ち止まった。それから全力をよび起こして、桶を取り、元気を出して歩きだした。けれども絶望的なあわれな少女は、思わず声を立てないではおれなかった。「おう神様! 神様!」
その時、彼女はにわかに桶《おけ》が少しも重くないのを感じた。非常に大きいように思われた一つの手が、桶の柄をつかんで勢いよくそれを持ち上げたのだった。彼女は頭を上げた。まっすぐにつき立った黒い大きな姿が、暗やみの中を彼女と並んで歩いていた。それは彼女の後ろからやってきた一人の男で、その近づいて来る足音を彼女は少しも耳にしなかったのである。男は一言も口をきかないで、彼女の持っている桶《おけ》の柄に手をかけていた。
人生のいかなるできごとにも相応ずる本能もある。少女は別に恐怖を感じなかった。
六 ブーラトリュエルの明敏を証するもの
一八二三年のその同じクリスマスの日の午後、パリーのオピタル大通りの最も寂しい所を、かなり長い間一人の男がうろついていた。その男は住宅をさがしてるような様子であって、サン・マルソー郭外のその荒廃した片すみにある最も質素な人家の前に好んで足を止めてるようだった。
果してその男が、その寂しい町に部屋を一つ借りたことは、後に述べるとしよう。
その男は、服装《みなり》から見ても人柄から見ても、高等|乞食《こじき》とでも称し得るような型《タイプ》をそなえていた、すなわち非常な見窄《みすぼ》らしさとともにまた非常な清潔さを。そういう一致はあまり見られないものであって、きわめて貧しい者に対する敬意ときわめてりっぱな者に対する敬意と、二重の敬意を心ある人々に起こさせるものである。彼はごく古いがよくブラシをかけた丸い帽子をかぶり、粗末な石黄色の布地《きれじ》のすっかり糸目まですり切れてしまったフロック型の上衣をつけていた。その当時黄色の服はちっとも変ではなかったのである。ごく古い型のポケット付きのチョッキ、膝《ひざ》の所は灰色になってる黒い短ズボン、黒い毛糸の靴下、銅の留め金がついてる厚皮の短靴。何だか亡命の旅から帰ってきた良家の古い家庭教師といった姿である。そのまっ白な髪や、しわよった額《ひたい》や、青白い脣《くちびる》や、生の疲れと倦怠《けんたい》とが現われてる顔つきなどを見ると、もう六十歳のずっと上であるように思われた。けれども、ゆっくりではあるがしっかりした歩き方や、あらゆる動作に現われてる特別な元気などを見ると、五十歳にもなっていないかとさえ思われた。顔のしわは程よくついていて、注意して見る者にはいい感じを与えるようだった。脣《くちびる》は妙な襞《ひだ》をこしらえて引きしまっていて、厳酷そうであったが、実は謙譲であった。その目つきの奥には、何ともいえない悲しげな清澄さがあった。左手には、ハンカチでくくった小さな包みを持ち、右手には、どこかの籬《まがき》からでも切り取ってきたような杖らしいものをついていた。その杖は多少念入りにこしらえられていて、あまりぶかっこうなほどではなかった。節はみなうまく利用されていて、珊瑚《さんご》まがいの赤蝋《せきろう》の杖頭がついていた。一本の棒にすぎなかったが、ちょっと見たところはりっぱなステッキのようだった。
その大通りは人通りの少ない所で、ことに冬はそうだった。けれどもその男は、別に目立つほどでもないが、通行人を求めるよりもむしろ避けてるようであった。
そのころ国王ルイ十八世は、ほとんど毎日のようにショアジー・ル・ロアに行っていた。そこは彼の好きな遊歩地の一つであった。たいていいつも二時ごろには、国王の馬車と騎馬の行列とが大駆けでオピタル大通りを通るのが見られた。
それは、その辺に住む貧しい人々にとっては懐中時計や柱時計の代用をしていた。彼らは言った、「もう二時になる、チュイルリー宮殿へお帰りだから。」
そして駆けつけて来る者もあれば、そこに立ち並ぶ者もあった。なぜなら、国王の通御は常に人を騒がせるものであるから。その上、ルイ十八世の出入は、パリーの町々にある影響を与えていた。その通過はすみやかではあったが、しかし堂々たるものであった。不具の王は馬の大駆けを好んで
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