た。彼女はその差口《さしぐち》を回した。娘は頭をもたげて彼女の様子をじっと見守っていた。少しの水がたらたらと差し口から流れて、コップに半分ばかりたまった。「おや、」と彼女は言った、「もう水がない!」それから彼女はちょっと口をつぐんだ。娘は息もつかなかった。
「いいさ、」と上さんは半分ばかりになったコップを見ながら言った、「これで間に合うだろう。」
 でコゼットはまた仕事にかかった。けれども十五、六分ばかりの間は、心臓が大きな毬《まり》のようになって胸の中に踊ってるような気がした。
 そういうふうにして過ぎ去っていく時間を数えながら、彼女は早く明日の朝になればいいがと思っていた。
 酒を飲んでいた一人の男が、時々表をながめては大きな声を出した。「釜の中みてえにまっくらだ!」あるいはまた、「今ごろ提灯《ちょうちん》なしに外を歩けるなあ猫《ねこ》ぐらいのもんだ!」それを聞いてコゼットは震えた。
 突然、この宿屋に泊まってる行商人の一人がはいってきた、そして荒々しい声で言った。
「私の馬には水をくれなかったんだな。」
「やってありますとも。」とテナルディエの上さんは言った。
「いやお上さん、やってないんだ。」と商人はまた言った。
 コゼットはテーブルの下から出てきた。
「いえやりましたよ!」と彼女は言った。「馬は飲みましたよ。桶《おけ》一杯みんな飲みましたよ。この私が水を持っていって、馬に口をききながらやったんですもの。」
 それは本当ではなかった。コゼットは嘘《うそ》を言っていた。
「この女郎《めろう》、拳《こぶし》ぐれえなちっぽけなくせに、山のような大きな嘘《うそ》をつきやがる。」と商人は叫んだ。「馬は水を飲んでいないんだ、鼻ったらしめ! 水を飲んでいない時には息を吹く癖があるんだ。俺はよく知ってるんだ。」
 コゼットは言い張った。そして心配のために声をからして聞きとれないくらいの声でつけ加えた。
「そして大変よく飲んだんですよ。」
「なんだって、」と商人は怒って言った、「そんなことがあるもんか。俺の馬に水をやるんだ。ぐずぐず言うない!」
 コゼットはまたテーブルの下にはいりこんだ。
「ほんとにそうですとも。」とテナルディエの上さんは言った。「馬に水をやってないなら、やらなければいけません。」
 それから彼女はまわりを見回した。
「そしてまた、あの畜生めどこへ行った?」
 彼女は身をかがめて、テーブルの向こうの端に、酒を飲んでる人たちのほとんど足の下にうずくまってるコゼットを見つけだした。
「出てこないか。」と上さんは叫んだ。
 コゼットは隠れていたその穴から出てきた。上さんは言った。
「この碌《ろく》でなしめ、馬に水をおやりったら。」
「でもお上さん、」とコゼットは弱々しく言った、「水がありませんもの。」
 上さんは表の戸を押し開いた。
「ではくみに行ってくるさ!」
 コゼットは頭をたれた、そして暖炉のすみに行って、からの桶《おけ》を取り上げた。
 その桶は彼女の身体よりも大きく、中にすわっても楽なくらいであった。
 上さんは竈《かまど》の所へ戻り、スープ鍋の中のものを木の匙《さじ》でしゃくって、味をみながら、ぶつぶつ言っていた。
「水は泉に行けばいくらでもある。あんな性の悪い児ったらありはしない。ああこの玉葱《たまねぎ》はよせばよかった。」
 それから彼女は引き出しの中をかき回した。そこには貨幣だの胡椒《こしょう》だの大蒜《にんにく》だのがはいっていた。
「ちょいと、おたふく、」と彼女はつけ加えた、「帰りにパン屋で大きいパンを一つ買っておいで。そら、十五スーだよ。」
 コゼットは胸掛けの横に小さなポケットを一つ持っていた。彼女は物も言わずにその銀貨を取って、ポケットの中に入れた。
 それから彼女は、手に桶を下げ、開いている戸を前にして、じっと立っていた。だれか助けにきてくれる人を待ってるがようだった。
「行っといでったら!」とテナルディエの上さんは叫んだ。
 コゼットは出て行った。戸は閉ざされた。

     四 人形の登場

 露店の列が教会堂の所からテナルディエの宿屋の所までひろがっていたことは読者の記憶するところであろう。町の人たちがやがて夜中の弥撒《ミサ》のためにそこを通るので、それらの露店は、紙でこしらえた漏斗形の台の中にともされた蝋燭《ろうそく》の光で明るく照らされていた、そして、その時テナルディエの家の食卓についていたモンフェルメイュの小学校の先生が言ったとおり、「幻燈のようなありさま」を呈していた。その代わり、空には一点の星影も見えなかった。
 それらの露店の一番端のものは、ちょうどテナルディエの家の入り口と向かい合いに建てられていて、金ぴかのものやガラスのものやブリキ製のきれいなものなどで輝いてる玩具屋《おもちゃや》だった。その玩具棚の一番前の棚には、白い布《きれ》のふとんの上に高さ二尺もあろうという大きな人形が一つすえられていた。人形は薔薇色《ばらいろ》の紗《しゃ》の着物を着、頭には金色の麦の穂をつけ、本物の髪毛がついていて、目には琺瑯《ほうろう》が入れてあった。通りがかりの十歳以下の子供は、その珍しい人形にびっくりして終日その前に引きつけられていたが、それを子供に買ってやるだけ金を持ったぜいたくな母親は、モンフェルメイュにはいなかったのである。エポニーヌとアゼルマとは何時間もそれに見とれていた、そしてまた実際コゼットまでがそっとそれをのぞきに行ったほどである。
 桶《おけ》を手に持って外に出たコゼットは、非常に陰うつでかつがっかりしていたけれど、それでもその素敵な人形の方へ目をあげないではおられなかった。彼女はその人形を自ら奥様[#「奥様」に傍点]と呼んでいた。あわれな彼女はその前に化石したように立ち止まった。彼女はその時までそれをまぢかに見たことがなかったのである。彼女にはその店全体が、宮殿のように思えた。そして人形はもう一つの人形ではなくて幻影であった。それは喜悦と光耀《こうよう》と富貴と幸福とであって、陰惨な冷たい辛苦のうちに深く閉ざされていたこの不幸なる少女にとっては、夢のような光彩のうちに浮かんで見えた。コゼットは子供らしい無邪気なまた悲しい知恵をしぼって、自分と人形とを距《へだ》てている深淵を測ってみた。女王かまた少なくとも王女でなければあのような「もの」を手にすることはできまいと思った。彼女はその薔薇色《ばらいろ》のきれいな着物やそのなめらかな美しい髪毛をながめた、そして考えた、「あの人形はどんなにか仕合わせだろう!」彼女はその幻のような露店から目を離すことができなかった。見れば見るほどそれに眩惑《げんわく》された。あたかも楽園を見るような気がした。その大きい人形の後ろには幾つも他の人形があって、それが妖精《ようせい》や精霊のように思われた。店の奥を行ききしている商人は、何だか天の父ででもあるかのように思われた。
 そして心を奪われてるうちに、彼女はすべてを忘れ、言いつかった用事までも忘れてしまっていた。と突然、テナルディエの上さんの荒々しい声が彼女を現実の世界に呼びさました。「おや、ばか娘、まだ行かなかったのか。待っといで、私が出ていくから。そこで何をしてたんだ。このお化けめ、おゆきったら!」
 上さんはちらと外をのぞいて、心を奪われて立ってるコゼットの姿を見つけたのだった。
 コゼットは桶《おけ》を持って、できるだけ大急ぎで逃げ出した。

     五 少女ただ一人

 テナルディエの宿屋は村のうちで教会堂に近い方の部分にあったので、コゼットはシェルに面した方の森の中の泉に水をくみに行かなければならなかった。
 彼女はもう他の店は一軒ものぞいて見なかった。そしてブーランゼーの小路から教会堂の近くまで行く間は、露店の燈火《あかり》が道を照らしていたが、やがて一番終わりの店の燈火も見えなくなってしまった。あわれな娘は暗やみのうちにあって、その中をつき進んだ。ある一種の恐怖にとらえられていたので、歩きながら桶《おけ》の柄を力限り動かしていた。それから出る音が彼女の道連れであった。
 進めば進むほどやみはますます濃くなっていった。道には一人の人もいなかった。がただ一人の女に出会った。その女は彼女の通りすぎるのを見てふり返り、立ち止まって口の中でつぶやいた。「いったいあの子はどこへ行くんだろう? まるで化け物のようだが。」そのうちに女はそれがコゼットであることに気づいた。「まあ、」と女は言った、「雲雀娘《ひばりむすめ》だったのか!」
 そのようにしてコゼットは、シェルの方に面したモンフェルメイュの村はずれの曲がりくねった人気《ひとけ》のない小路の入り乱れた中を通って行った。そして道の両側に人家やまたは壁だけでもある間は、かなり元気に進んでいった。時々彼女は、鎧戸《よろいど》のすき間から蝋燭《ろうそく》の光がもれるのを見た。それは光明であり生命であって、そこには人がいたのである。彼女はそれに安堵《あんど》することができた。けれども、先へ行くに従って彼女の歩みはほとんど機械的に遅くなっていった。最後の人家の角を通り過ぎた時、コゼットは立ち止まった。最後の露店の所からそこまで行くのも、既に困難なことだったが、今やその最後の人家から先へ行くことは、ほとんど不可能だった。彼女は桶《おけ》を地面に置き、髪の中に手を差し入れて、静かに頭をかき初めた。怖《お》じ恐れて決断に迷ってる子供によく見る態度である。もうそこはモンフェルメイュの村ではなく、野の中だった。暗い寂しいひろがりが彼女の前にあった。彼女はその暗黒を絶望の目で見やった。そこには一つの人影もなく、獣の姿があり、またおそらく化け物の姿もあった。彼女はじっと透かし見た。草の中を歩き回る獣の足音が聞こえた。樹木の間をうろついてる化け物の姿がはっきり見えた。その時彼女はまた桶の柄《え》を手に取り上げた。恐怖は彼女を大胆になしたのである。「かまやしない!」と彼女は言った、「水はなかったと言ってやろう。」そして彼女は覚悟して、またモンフェルメイュの村の中に戻って行った。
 百歩ばかり引き返すと、彼女はまた立ち止まって、頭をかき初めた。こんどはテナルディエの上《かみ》さんの姿が見えてきた。その恐ろしい姿は、山犬のような口をして、目は怒りに[#「怒りに」は底本では「燃りに」]燃え立っていた。娘は自分の前と後ろとを悲しい目つきで見やった。どうしたらいいだろう? どうなるだろう? どちらへ行ったものだろう? 前にはテナルディエの上さんの姿があり、後ろには夜と森とのいろんな化け物がいた。がついに彼女はテナルディエの上さんの姿の前から後にしざった。彼女はまた泉へ行く道を取って、走り出した。走りながら、モンフェルメイュの村を出て、走りながら森の中にはいり、もう何にもながめず、何にも耳を貸さなかった。息が切れた時ようやく走るのをやめたが、なお続けて進んだ。無我夢中でただ前へと進んでいった。
 走りながらも彼女は泣きたくなっていた。
 森の夜の震えが全く彼女をとり囲んでしまった。彼女はもう何にも考えなかった。何にも見なかった。広漠たる夜がその少女に顔を面していた。一方はいっさいの影、一方は眇《びょう》たる一原子にすぎなかった。
 森の縁から泉まではわずか七八分の距離であった。コゼットはしばしば昼間通ったことがあるので、その道をよく知っていた。で不思議にも道に迷いはしなかった。本能の一部が残っていて、彼女を漠然《ばくぜん》と導いたのである。その間彼女は、右にも左にも目を向けなかった、木の枝の間や藪《やぶ》の中に何かが出てきはしないかと恐れたので。そして彼女は泉の所へ達した。
 それは赤土交じりの地面に水で掘られた深さ二尺ばかりの天然の狭い水たまりであった。まわりには苔《こけ》がはえ、アンリ四世のえり飾りと呼ばるる長い縞《しま》のある草が茂り、また幾つかの大きな石が舗《し》いてあった。一条の水が、静かなささやかな音を立ててそこから流れ出ていた。
 コゼットは息をつく間
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