根の旗は白旗となった。亡命者が王位にのぼった。ハルトウェルの樅《もみ》のテーブルは、ルイ十四世式の百合《ゆり》花模様の肱掛椅子《ひじかけいす》の前に据えられた。人々はブーヴィーヌやフォントノアなど([#ここから割り注]訳者注 昔フランス王によって得られた戦勝の地[#ここで割り注終わり])のことを昨日の事のように語り、アウステルリッツは既に老い朽ちてしまった。教会と王位とは、おごそかに親愛の情を結んだ。十九世紀の社会安寧の最も動かし難き一形式が、フランスおよび大陸の上に建てられた。ヨーロッパは白い帽章をつけた。トレスタイヨン([#ここから割り注]訳者注 過激王党の首領の一人[#ここで割り注終わり])は世に高名となった。オルセー河岸の兵営の正面に太陽を象《かたど》った石の光線のうちには、多頭制に劣らず[#「多頭制に劣らず」に傍点]の箴言《しんげん》が再び現われた。皇帝親衛兵のいた所には今は赤服の近衛兵がいた。カルーゼルの凱旋門《がいせんもん》は、卑劣に得られた戦勝の名前におおわれ、それらの新流行に困らされ、おそらくマレンゴーやアルコラの戦勝の名前に多少恥じてか、アングーレーム公の像によってわずかに難局をきりぬけた。一七九三年の恐るべき共同墓地となったマドレーヌの墓場は、ルイ十六世およびマリー・アントアネットの遺骨がその塵《ちり》にまみれていたので、いまや大理石や碧玉《へきぎょく》を着せられた。ヴァンセンヌの溝《みぞ》の中には一基の墓碑が地上に現われて、ナポレオンが帝冠をいただいた同じ月にアンガン公が銃殺されたのであることを、今更に思い起こさしめた。その死のまぢかで戴冠式《たいかんしき》をあげさした法王ピウス七世は、その即位を祝福したときのごとく平静にその転覆を祝福した。シェンブルンには、ローマ王と呼ぶのもはばかられるわずか四歳の小さな人影があった。そして、すべてそれらのことは成し遂げられ、それらの王は再び王位につき、全ヨーロッパの首長は籠の中に入れられ、旧制度は新制度となり、地上のあらゆる影と光とは、その地位を変えたのである。それはただある夏の日の午後、一人の牧人が森の中で一人のプロシア人に向かって、「こちらからおいでなさい、あちらからはだめです!」と言ったからである([#ここから割り注]訳者注 ワーテルローにおけるブューローの案内者のこと参照[#ここで割り注終わり])。
この一八一五年は、一種の悩ましい四月の月であった。不健康にして有毒な古い現実は、新しい装いをこらした。欺瞞《ぎまん》は一七八九年をめとり、神法は一つの憲法の下に隠れ、擬制は立憲となり、特権や妄信《もうしん》や底意は、胸に抱きしめられたる第十四条([#ここから割り注]訳者注 憲法第十四条――王は国家の最上首長にして、陸海軍を統率し、宣戦を布告し、平和、同盟、通商上の条約を締結し、官吏を任免し、法律の適用と国家の安寧とのために、必要なる規定および命令を発す[#ここで割り注終わり])とともに、自由主義で表面を糊塗《こと》した。それは蛇《へび》の脱皮であった。
人間はナポレオンによって同時に大きくされ、また小さくされていた。理想はその燦爛《さんらん》たる物質の世において、空想という妙な名前をもらっていた。未来を嘲弄《ちょうろう》したのは偉人の重大な軽率である。さはれ、砲弾にさらされながらその砲手を深く愛していた民衆らは彼をさがし求めた。どこに彼はいるか? 彼は何をなしているか? マレンゴーおよびワーテルローに臨んだ一人の老廃兵に向かって、ある通行人は言った、ナポレオンは死んだと。するとその兵士は叫んだ、「あの人が死んだと[#「あの人が死んだと」に傍点]! 君はいったい[#「君はいったい」に傍点]、あの人をよく知ってるか[#「あの人をよく知ってるか」に傍点]?」人々の想像は転覆された彼を神に祭り上げていた。ヨーロッパの奥底はワーテルローの後に暗黒になった。ナポレオンの消滅によって、ある巨大な空虚が長く残されたのである。
諸国王らはその空虚の中に身を据えた。旧ヨーロッパはその機に乗じて復古した。神聖同盟《サント・アリアンス》は作られた。しかしワーテルローの災なる戦場はそれに先立ってベル・アリアンスと叫んだではないか([#ここから割り注]訳者注 ワーテルローの一地名であるが、またその文字は美しき同盟という意味を有する[#ここで割り注終わり])。
この建て直されたる旧ヨーロッパに対峙《たいじ》し対抗して、一つの新しきフランスのひな形は描かれた。皇帝によって嘲弄《ちょうろう》された未来は現出しきたった。それは額《ひたい》に自由という星をつけていた。新しき時代の熱烈な目はその方へ向けられた。ただ不思議なことには、人々はその未来なる「自由」と、その過去なるナポレオンとに、同時に心を奪われた。敗北は敗者を大ならしめていたのである。転覆したボナパルトは、つっ立ってるナポレオンよりもいっそう高いように思われた。勝利を得た者らも恐れをいだいた。イギリスはハドソン・ロウをして彼の番をさせ、フランスはモンシュニュをして彼の様子をうかがわした。胸に組んだ彼の両腕は、諸王位の不安となった。アレキサンドル皇帝は彼を「予が不眠」と名づけた。かかる恐怖は、彼がおのれのうちに有していた広大なる革命よりきたったのである。それこそボナパルト式自由主義を説明するものであり、それを許さしむるところのものである。その幻影は旧世界に戦慄《せんりつ》を与えた。諸国王は、はるか水平線のかなたにセント・ヘレナの巌《いわお》を有して、不安げに国政を統《す》べた。
ナポレオンがロングウッドの住居において臨終の苦悶を閲《けみ》しつつある間に、ワーテルローの平野に倒れた六万の人々は静かに腐乱してゆき、彼らの平和のあるものは世界にひろがっていった。それをウイン会議は一八一五年の条約となし、それをヨーロッパは復古と名づけた。
ワーテルローがいかなるものであったかは、おおよそ右のとおりである。
しかしそれも無窮なるものに対しては何のかかわりがあろう? そのすべての暴風雨、そのすべての雲霧、その戦い、次にその平和、そのすべての影、それも広大なる日の輝きを一瞬たりとも乱すことはできなかった。その目の前においては、草の葉より葉へとはう油虫も、ノートル・ダーム寺院の塔の鐘楼より鐘楼へと飛ぶ鷲《わし》も、なんら選ぶところはないのである。
十九 戦場の夜
さて再びあの不運なる戦場に立ち戻ってみよう。実はそれがこの物語に必要なのである。
一八一五年六月十八日の夜は満月であった。その月の光は、ブリューヘルの獰猛《どうもう》な追撃に便宜を与え、逃走兵のゆくえを照らし出し、その不幸な集団を熱狂せるプロシア騎兵の蹂躙《じゅうりん》にまかせ、虐殺を助長せしめた。大破滅のうちには往々にして、かかる悲愴《ひそう》な夜の助けを伴うものである。
最後の砲撃がなされた後、モン・サン・ジャンの平原には人影もなかった。
イギリス軍はフランス軍の陣営を占領した。敗者の床に眠ることは戦勝の慣例的なしるしである。彼らはロッソンムの彼方に露営を張った。プロシア軍は壊走者《かいそうしゃ》の後を追って前進を続けた。ウェリントンはワーテルローの村に行って、バサースト卿への報告をしたためた。
かく汝働けども[#「かく汝働けども」に傍点]、そは汝自らのためにはあらず[#「そは汝自らのためにはあらず」に傍点]という格言([#ここから割り注]訳者注 他人の功を横取りする場合に言う[#ここで割り注終わり])を、もし実際に適用し得るならば、それはまさしくこのワーテルローの村に対してであろう。ワーテルローの村はただ手をこまぬいていて、戦地をへだたる半里の所にあった。モン・サン・ジャンは砲撃され、ウーゴモンは焼かれ、パプロットは焼かれ、プランスノアは焼かれ、ラ・エー・サントは強襲され、ラ・ベル・アリアンスは二人の勝利者の抱擁するのを見た。しかしそれらの名前はほとんど世に知られないで、戦いに少しも働かなかったワーテルローがすべての名誉をになっている。
われわれは戦争に媚《こ》びる者ではない。機会あらばその真相を告げ知らしてやろうとする者である。戦争に恐るべき美の存することを、われわれは隠さずに述べてきた。しかしまた多少の醜悪も存することを認めなければならない。その最もはなはだしい醜悪の一つは、戦勝ののち直ちに死者のこうむる略奪である。戦いに次いで来る曙は常に、裸体の屍《かばね》の上に明けゆくものである。
そういうことをなす者はだれであるか。かく戦勝を汚す者はだれであるか。勝利のポケットの中に差し入れらるるそのひそやかな醜い手はいかなるものであるか。光栄の背後にひそんで仕事をなすそれらの掏摸《すり》は何者であるか。ある哲学者らは、なかんずくヴォルテールは、それはまさしく光栄をもたらしたその人々であると断言する。彼らは言う、それはその人々にほかならない、代わりの者はいないのである、立っている者らが、倒れてる者らを略奪するのである。昼間の英雄は、夜には吸血鬼となる。要するに、おのれの殺した死骸が所持するものを多少略奪することは、まさしく正当の権利であると。しかしながら、われわれはそれを信じない。月桂樹《げっけいじゅ》の枝を折り取ることと死人の靴を盗むこととは、同一人の手には不可能事であるようにわれわれは思う。
ただ一つ確かなことは、普通勝利者の後に盗人が来るということである。しかしながら、兵士は、ことに近代の兵士は、この問題の外に置きたいものである。
あらゆる軍隊は一つの尾を持っている。その者どもこそ、まさしく責むべきである。蝙蝠《こうもり》のごとき者ども、半ば盗賊であり半ば従僕である者ども、戦争と呼ばるる薄明りが産み出す各種の蝙蝠、少しも戦うことをしない軍服の案山子《かがし》、作病者、恐るべき跛者、時としては女房どもとともに小さな車にのって歩きながら酒を密売しそれをまた盗み歩くもぐり商人、将校らに案内者たらんと申し出る乞食《こじき》、風来者の従卒、かっさらい、それらの者どもを、行進中の軍隊は昔――われわれは現代のことを言ってるのではない――うしろに引き連れていた。専門語ではそれをうまくも「遅留兵」と呼んだものである。その者どもについての責任は、どの軍隊にもどの国民にもなかったのである。彼らはイタリー語を話してドイツ軍に従い、フランス語を話してイギリス軍に従うたぐいの奴らである。フェルヴァック侯爵が、むちゃなピカルディー語のために欺かれてフランス人だと思い込み、チェリゾラの勝利の夜、同じ戦場にて暗殺され略奪されたのも、かかる惨《みじ》めな奴《やつ》らの一人、フランス語を話すスペイン人の一遅留兵のためにであった。略奪から賤夫《せんぷ》が生まれる。敵によって糧を得よ[#「敵によって糧を得よ」に傍点]という賤《いや》しむべき格言は、この種の癩病《らいびょう》やみを作り出した。それをなおすにはただ厳酷な規律あるのみである。だが往々、およそ名実伴わぬ高名の人がいるものである。某々の将軍は実際えらいには違いないが、何ゆえにかくも人望があったのか、その理由がわからぬこともしばしばある。テューレンヌは略奪を許したので兵卒どもに賞揚された。悪事の黙許は親切の一部である。テューレンヌはパラティナの地を兵火と流血とにまみらしめたほど親切であった。軍隊の後方における略奪者の多寡《たか》はその司令官の苛酷《かこく》に反比例することは、人の見たところである。オーシュおよびマルソー両将軍には少しも遅留兵がなかった。ウェリントンにはそれが少ししかなかった。この点について、われわれは喜んで彼に公平なる賛辞を呈するものである。
それでもなお六月十八日から十九日へかけての夜、死人は続々略奪をこうむった。ウェリントンは厳格であった。現行を見い出したならば直ちに銃殺すべしとの命令を下した。しかし劫奪《ごうだつ》は執拗《しつよう》であった。戦場の片すみに銃火のひらめいてる間に盗人らは他の片す
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