たる第一流の戦いである。
 ワーテルローの戦いにおいて賞賛しなければならないものは、イギリスであり、イギリスの強靱《きょうじん》、イギリスの決意、イギリスの血である。イギリスがそこにおいて有したみごとなものは、もしかく言うことがイギリスにとって不快でないならば、それはイギリス自身である。その将帥にあらずしてその軍隊である。
 不思議に忘恩なるウェリントンは、バサースト卿に贈った書簡のうちにおいて、彼の軍隊、一八一五年六月十八日に戦った軍隊は、「軽蔑《けいべつ》すべき軍隊」であったと述べている。ワーテルローの田野の下に埋もれているあの陰惨なるつみ重なった骸骨《がいこつ》どもは、それを何と思うであろうか?
 イギリスはウェリントンに対してあまりに謙譲であった。ウェリントンをかく偉大ならしむることは、イギリスを微小ならしむることである。ウェリントンはただ普通の一英雄に過ぎない。あの灰色のスコットランド兵、あの近衛騎兵、あのメートランドおよびミッチェルの連隊、あのパックおよびケンプトの歩兵、あのポンソンビーおよびソマーセットの騎兵、霰弾《さんだん》の下に風笛を奏していたあのハイランド兵、あのライラントの大隊、エスリングおよびリヴォリの戦いいらいの老練なる軍勢に対抗したるあのほとんど銃の操法をも知らなかった全くの新参兵、彼らこそ偉大なのである。ウェリントンは頑固《がんこ》であり、そこに彼の価値はあった。そして吾人《ごじん》はそれをけなすものではない。しかし彼の歩兵や騎兵の些少《さしょう》といえども彼と同じく堅固だったのである。鉄石大公に恥じない鉄石兵士である。吾人は吾人のすべての賞揚を、イギリス兵士に、イギリス軍に、イギリス民衆に与える。もし戦勝記念標があるならば、それはイギリスのものである。ワーテルローの円柱塔にして、もし一人の顔貌の代わりに一民衆の像を雲間に高く上ぐるならば、それはいっそう正当なものとなるであろう。
 しかしこの偉大なるイギリスは、吾人のここに述ぶるところのものを怒るであろう。彼はなお、かの一六八八年およびフランスの一七八九年の両革命後においても、封建的の幻を有している。彼はなお世襲制および階級制を信じている。強大と光栄とにおいて他にすぐれたるその民衆は、民衆としてでなく国民として自尊している。民衆でありながら、しかも好んで服従し、頭として一人の君主を戴《いただ》いている。労働者は甘んじて軽侮され、兵士は甘んじて鞭《むち》打たれる。人の記憶するごとく、インケルマンの戦いにおいて、一人の軍曹がたしかに全軍を救ったと思われることがあったが、彼はラグラン卿からその名を述べらるることができなかった。イギリスの陸軍階級制は、将校以下の者はいかなる英雄をも、これを報告中にしるすことを許さないのである。
 さてワーテルローのごとき種類の会戦において、何物よりも特に吾人《ごじん》の感嘆するところのものは、偶然が示した驚くべき巧妙さである。夜の雨、ウーゴモンの城壁、オーアンの凹路《おうろ》、大砲の音をも耳にしなかったグルーシー、ナポレオンを欺いた案内者、ブューローを正当に導いた案内者、すべてそれらの異変はみごとに導き出されたのである。
 なお全体としてこれを言えば、ワーテルローには戦いというよりむしろ殺戮《さつりく》があった。
 ワーテルローは、あらゆる大戦のうちにおいて、兵士の数に比して最も狭小な正面を有する戦いである。ナポレオンは四分の三里の正面、ウェリントンは半里の正面、しかも双方とも各※[#二の字点、1−2−22]七万二千の兵士。その密集よりあの殺戮が到来した。
 次の計算がなされ、次の比例が立てられた。兵員の損失――アウステルリッツにおいて、フランス軍百分の十四、ロシア軍百分の三十、オーストリヤ軍百分の四十四。ワグラムにおいて、フランス軍百分の十三、オーストリア軍百分の十四。モスコヴァにおいて、フランス軍百分の三十七、ロシア軍百分の四十四。バウツェンにおいて、フランス軍百分の十三、ロシア・プロシア軍百分の十四。ワーテルローにおいて、フランス軍百分の五十六、連合軍百分の三十一。ワーテルローについての合計、百分の四十一。十四万四千の兵士に、六万の戦死者。
 ワーテルローの平野は今日、人間の虚心平気な踏み台たる地面に固有の平静さを保っている、そして他の平原と何ら異なった点を有しない。
 けれども夜には、一種の幻の靄《もや》が立ち上る。もしだれか旅客にして、そこを漫歩し目を定め耳を澄まし、あのいたましきフィリッピの平原([#ここから割り注]訳者注 昔アントニウスとオクタヴィアヌスとがブルツスとカシウスとを敗ったマケドニアの平原[#ここで割り注終わり])に対するヴィルギリウスのごとくに黙想するならば、そこに起こった大破滅の幻覚にとらえらるるであろう。恐ろしき六月十八日の様はよみがえってき、人工の記念の丘は消え、何かのその獅子《しし》の像も消散し、戦場はまざまざと現われて来る。歩兵の列は平原のうちにうねり、狂うがごとく疾駆する騎兵の列は地平を過ぎる。心乱れたその瞑想《めいそう》の旅客は見る、サーベルのひらめきを、銃剣の火花を、破烈弾の火災を、雷電の驚くべき交錯《こうさく》を。また彼は聞く、墳墓の底の瀕死の喘《あえ》ぎのごとくに、幻の戦いの漠たる叫喊《きょうかん》の響きを。あの物影は擲弾兵《てきだんへい》、あの微光は胸甲騎兵、あの骸骨《がいこつ》はナポレオン、あの骸骨はウェリントン。それらはもはや幻ではあるが、しかもなお互いに衝突し戦っている。谿谷《けいこく》は赤くいろどられ樹木は震え、雲間にまで狂暴なものがひろがり、そして暗夜のうちに、モン・サン・ジャン、ウーゴモン、フリシュモン、パプロット、プランスノアなど、すべてそれらの凶暴な高地は茫乎《ぼうこ》と現われきたって、その上には、互いに殲滅《せんめつ》し合う幽鬼の旋風が荒れ狂っている。

     十七 ワーテルローは祝すべきか

 世には少しもワーテルローを憎まないきわめて敬すべき自由主義の一派がある。しかし吾人《ごじん》はその仲間ではない。吾人に取っては、ワーテルローは単に自由の惘然《ぼうぜん》自失した一時期を画するものに過ぎない。かくのごとき鷲よりかくのごとき卵が生れるとは、それこそ正しく意外事である。
 ワーテルローは、これを問題の最高見地よりみるならば、ことさらに反革命的の勝利である。それはフランスに対抗するヨーロッパであり、パリーに対抗するペテルブルグとベルリンとウインとである。進取に対抗する現状維持《スタチュ・クオ》であり、一八一五年三月二十日を通じて攻撃されたる一七八九年七月十四日であり([#ここから割り注]訳者注 前者はナポレオンのエルバ島よりパリーへ帰着の日、後者はフランス大革命の初端バスティーユ牢獄破壊の日[#ここで割り注終わり])フランスの制御すべからざる騒乱に対する諸君主政体の戦闘準備である。既に二十六年前から爆発しているその広大な民衆を消滅し尽すこと、それがその夢想であった。それは、ブルンスウィック家、ナッソー家、ロマノフ家、ホーヘンツォルレルン家、ハプスブールグ家などと、ブールボン家との連衡である。しかしワーテルローはその背に神法をになっている。帝国が専制的であったがゆえに、それに代わった王国が事物の自然の反動として無理にも自由的でなければならなかったことは、真実である。そして勝利者らのいたく遺憾としたことではあったが、余儀ない立憲制がワーテルローから出てきたことも、真実である。革命は真に敗らるることのできないものだからである。そしてそれは天意的なもので絶対に決定的なものであるがゆえに、常に再現し来るからである。すなわち、ワーテルローの前においては、古き諸王位を覆《くつがえ》したボナパルトのうちに、そしてワーテルローの後においては、憲法に同意し服従したルイ十八世のうちに現われた。ボナパルトは平等を表明するに不平等を用いて、ナポリの王位に一御者を据え、スエーデンの王位に一軍曹を据えた。ルイ十八世はサン・トーアンにおいて人権尊重の宣言に署名した。もし革命の何たるやを解せんと欲するならば、それを「進歩」と呼んでみるがいい。そしてもし進歩の何たるやを解せんと欲するならば、それを「明日」と呼んでみるがいい。明日は必ずや明日の仕事をなす、しかもそれを既に今日よりなしている。明日は不思議にも常にその目的とするところに達する。一個の兵士にすぎなかったフォアをして一個の弁舌家たらしむるのに、明日はウェリントンを使用する。フォアはウーゴモンにて倒れ、再び演壇に立ち上がる([#ここから割り注]訳者注 彼はウーゴモンに負傷したがその後ナポレオンの没落後代議士として熱弁を振った[#ここで割り注終わり])。かくのごとく進歩は振る舞う。その職工にとっては一つとしていたずらな道具はない。彼は常に一糸乱さず、アルプスをまたいだあの男を、またエリゼー小父《おじ》というあのよろめきつつゆく善良な老病者を([#ここから割り注]訳者注 ナポレオンとルイ十八世[#ここで割り注終わり])、自己の聖なる仕事に適合させる。彼は脚気病者をも征服者をも等しく利用する、外部には征服者を、内部には脚気病者を。ワーテルローは、剣による欧州諸王位の崩壊を突然止めさせながら、他の方面において革命の事業を継続させるの結果をしかきたさしめなかった。軍人の時代は去って、思想家の世となった。ワーテルローが引き止めんと欲した世紀は、その上をふみ越えて、自己の道を続けた。その不祥なる勝利は、自由のために打ち負かされた。
 これを要するに、そしてまた確かに、ワーテルローにおいて勝利を得たところのもの、ウェリントンの背後にほほえんだところのもの、人の言うところではフランスの元帥杖をもこめてヨーロッパの元帥杖を彼にもたらしたところのもの、獅子《しし》の塚を築くために骸骨《がいこつ》の満ちた土の車を楽しげにひいたところのもの、その台石に一八一五年六月十八日[#「一八一五年六月十八日」に傍点]という日付を揚々としるしたところのもの、壊走兵《かいそうへい》をなぎ払うブリューヘルを励ましたところのもの、モン・サン・ジャンの高地の上から獲物をねらうようにフランスの上にのしかかってきたところのもの、それは反革命であった。分割という破廉恥なる言葉をつぶやく反革命であった。しかもパリーに到着して彼は目近かに噴火口を見た。彼はその灰がおのれの足を焼くのを感じた。そして意見を変えた。彼は再び憲法という不完全な試みに立ち戻った。
 吾人《ごじん》をして、ワーテルローの中に、ただワーテルローの中にあるもののみを見せしめよ。自ら求められたる自由はそこには少しもない。反革命は自ら欲せずして自由主義となった、とともにまた、それに相同じき現象によって、ナポレオンも自ら欲せずして革命家となった。一八一五年六月十八日、馬上のロベスピエールは落馬させられたのである。

     十八 神法再び力を振るう

 執政官制《ディクテーター》の終焉《しゅうえん》。ヨーロッパの全様式は瓦解《がかい》した。
 帝国は、あたかも死滅しゆくローマ帝国のそれのごとき暗黒のうちに倒れた。暗黒時代におけるがごとく、人は再び深淵を見た。ただ一八一五年の暗黒時代は、これをその通称によって反革命と呼ぶべきであるが、息が短く直ちに息を切らして、間もなくやんでしまった。滅びた帝国は、うち明けて言えば、人々から泣かれた、しかも勇壮なる人々の目によって泣かれた。もし光栄にして剣の笏《しゃく》のうちに存するならば、帝国は光栄そのものであった。それは暴政の与え得るすべての光耀《こうよう》を地上にひろげた、陰惨なる光耀を、いな、なお言わん、暗黒なる光耀を。真の白日に比較すれば、それは夜である。しかもその夜の消滅は、日食のごとき印象を与えた。
 ルイ十八世は再びパリーにはいった。七月八日の円舞踏は三月二十日の熱狂を消した。コルシカ人という言葉はベアルン人という言葉の対照となった。チュイルリー宮殿の丸屋
前へ 次へ
全58ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング