。
この一八一五年は、一種の悩ましい四月の月であった。不健康にして有毒な古い現実は、新しい装いをこらした。欺瞞《ぎまん》は一七八九年をめとり、神法は一つの憲法の下に隠れ、擬制は立憲となり、特権や妄信《もうしん》や底意は、胸に抱きしめられたる第十四条([#ここから割り注]訳者注 憲法第十四条――王は国家の最上首長にして、陸海軍を統率し、宣戦を布告し、平和、同盟、通商上の条約を締結し、官吏を任免し、法律の適用と国家の安寧とのために、必要なる規定および命令を発す[#ここで割り注終わり])とともに、自由主義で表面を糊塗《こと》した。それは蛇《へび》の脱皮であった。
人間はナポレオンによって同時に大きくされ、また小さくされていた。理想はその燦爛《さんらん》たる物質の世において、空想という妙な名前をもらっていた。未来を嘲弄《ちょうろう》したのは偉人の重大な軽率である。さはれ、砲弾にさらされながらその砲手を深く愛していた民衆らは彼をさがし求めた。どこに彼はいるか? 彼は何をなしているか? マレンゴーおよびワーテルローに臨んだ一人の老廃兵に向かって、ある通行人は言った、ナポレオンは死んだと。するとその兵士は叫んだ、「あの人が死んだと[#「あの人が死んだと」に傍点]! 君はいったい[#「君はいったい」に傍点]、あの人をよく知ってるか[#「あの人をよく知ってるか」に傍点]?」人々の想像は転覆された彼を神に祭り上げていた。ヨーロッパの奥底はワーテルローの後に暗黒になった。ナポレオンの消滅によって、ある巨大な空虚が長く残されたのである。
諸国王らはその空虚の中に身を据えた。旧ヨーロッパはその機に乗じて復古した。神聖同盟《サント・アリアンス》は作られた。しかしワーテルローの災なる戦場はそれに先立ってベル・アリアンスと叫んだではないか([#ここから割り注]訳者注 ワーテルローの一地名であるが、またその文字は美しき同盟という意味を有する[#ここで割り注終わり])。
この建て直されたる旧ヨーロッパに対峙《たいじ》し対抗して、一つの新しきフランスのひな形は描かれた。皇帝によって嘲弄《ちょうろう》された未来は現出しきたった。それは額《ひたい》に自由という星をつけていた。新しき時代の熱烈な目はその方へ向けられた。ただ不思議なことには、人々はその未来なる「自由」と、その過去なるナポレオンとに、同時に心を奪われた。敗北は敗者を大ならしめていたのである。転覆したボナパルトは、つっ立ってるナポレオンよりもいっそう高いように思われた。勝利を得た者らも恐れをいだいた。イギリスはハドソン・ロウをして彼の番をさせ、フランスはモンシュニュをして彼の様子をうかがわした。胸に組んだ彼の両腕は、諸王位の不安となった。アレキサンドル皇帝は彼を「予が不眠」と名づけた。かかる恐怖は、彼がおのれのうちに有していた広大なる革命よりきたったのである。それこそボナパルト式自由主義を説明するものであり、それを許さしむるところのものである。その幻影は旧世界に戦慄《せんりつ》を与えた。諸国王は、はるか水平線のかなたにセント・ヘレナの巌《いわお》を有して、不安げに国政を統《す》べた。
ナポレオンがロングウッドの住居において臨終の苦悶を閲《けみ》しつつある間に、ワーテルローの平野に倒れた六万の人々は静かに腐乱してゆき、彼らの平和のあるものは世界にひろがっていった。それをウイン会議は一八一五年の条約となし、それをヨーロッパは復古と名づけた。
ワーテルローがいかなるものであったかは、おおよそ右のとおりである。
しかしそれも無窮なるものに対しては何のかかわりがあろう? そのすべての暴風雨、そのすべての雲霧、その戦い、次にその平和、そのすべての影、それも広大なる日の輝きを一瞬たりとも乱すことはできなかった。その目の前においては、草の葉より葉へとはう油虫も、ノートル・ダーム寺院の塔の鐘楼より鐘楼へと飛ぶ鷲《わし》も、なんら選ぶところはないのである。
十九 戦場の夜
さて再びあの不運なる戦場に立ち戻ってみよう。実はそれがこの物語に必要なのである。
一八一五年六月十八日の夜は満月であった。その月の光は、ブリューヘルの獰猛《どうもう》な追撃に便宜を与え、逃走兵のゆくえを照らし出し、その不幸な集団を熱狂せるプロシア騎兵の蹂躙《じゅうりん》にまかせ、虐殺を助長せしめた。大破滅のうちには往々にして、かかる悲愴《ひそう》な夜の助けを伴うものである。
最後の砲撃がなされた後、モン・サン・ジャンの平原には人影もなかった。
イギリス軍はフランス軍の陣営を占領した。敗者の床に眠ることは戦勝の慣例的なしるしである。彼らはロッソンムの彼方に露営を張った。プロシア軍は壊走者《かいそうしゃ》の後を追って前進を続けた
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