ン・ヴァルジャンという名前が落ちかかったので、証拠なんかはどうでもよくなったのであろう。いったい検事などという者はいつもそういうふうなやり方をするではないか。囚人だというので、盗人だと考えられたのだ。」
またある瞬間に彼はこうも考えた。自分が自首して出たならば、自分の勇壮な行為と、過去七年間の正直な生活と、この地方のために尽した功績とは、十分に考量されて許されることになるかも知れない。
しかしそういう想像はすぐに消え失せてしまった。そして彼は苦笑しながら考えた。プティー・ジェルヴェーから四十スーを盗んだことは、自分を再犯者となすものである。その事件も必ずや現われて来るであろう。そして法律の明文によって自分は終身懲役に処せらるるであろう。
彼はついにすべての妄想《もうそう》を断ち切って、しだいに地上を離れ、他の所に慰安と力とを求めた。彼は自ら言った。自分は自己の義務を果たさなければならない。義務を避けた後よりも義務を果たした後の方が、より不幸になるということがあり得ようか。もし成り行きに任せ[#「成り行きに任せ」に傍点]、モントルイュ・スュール・メールにとどまっているならば、自分の高い地位、自分の好評、自分の善業、人の推服、人の敬意、自分の慈善、自分の富、自分の高名、自分の徳、それらは皆罪悪に汚されるであろう。そしてそれらの潔《きよ》い数々もこの忌むべき一事に関連するならば、何の滋味があろう。しかるに、もし自分が犠牲になり果たしたならば、徒刑場の柱と鉄鎖と緑の帽子と絶えざる労働と無慈悲な屈辱とにも、常に聖《きよ》い考えを伴うことができるであろう。
最後に彼はまた自ら言った。すべては必然の数《すう》である。自分の運命はかく定められたものである。自分には天の定めを乱す力はない。自分はただいずれの場合においても、外に徳を装って内に汚れを蔵するか、もしくは内に聖《きよ》きを抱いて外に汚辱を甘受するか、その一つを選ばなければならない。
かく雑多な沈痛な考えをめぐらしつつも、彼の勇気は少しも衰えなかった。しかし彼の頭脳は疲れてきた。彼は我にもあらず、他の事を、まったく関係のない種々のことを、考え初めた。
顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》の血管は激しく波打っていた。彼はなお室の中を歩き続けていた。会堂の時計がまず十二時を報じ、次に市役所の時計が鳴った。彼はその二つの大時計が十二打つ音を数えた。そしてその二つの鐘の音を比較してみた。その時彼は、ある金物屋で数日前に見た売り物の古い鐘の上に、ロマンヴィルのアントアーヌ[#「ロマンヴィルのアントアーヌ」に傍点]・アルバン[#「アルバン」に傍点]という名前が刻まれていたのを思い出した。
彼は寒気《さむけ》がした。そして少し火をたいた。窓をしめることには気がつかなかった。
そのうちに彼は昏迷《こんめい》の状態にまた陥っていた。十二時を打つ前に考えたことを思い出すのに、かなりの努力をしなければならなかった。ついにそれが思い出せた。
「ああそうだ、」と彼は自ら言った、「私は自首しようと決心したのであった。」
それから突然彼はファンティーヌのことを考えた。
「ところで、」と彼は言った、「あのかわいそうな女は!」
そこにまた新しい危機が現われた。
彼の瞑想《めいそう》のうちに突然現われたファンティーヌは、意外な一条の光のごときものであった。彼には自分のまわりのすべてがその光景を変えたように思われた。彼は叫んだ。
「ああ私は今まで自分のことしか考えなかった。私は自分一個の都合ばかりしか考えなかったのだ! 沈黙すべきかあるいは自首すべきか、自分の身の上を隠すかあるいは自分の魂を救うか、賤《いや》しむべきしかし世人に尊敬さるる役人となるか、あるいは恥ずべきしかし尊むべき囚人となるか、それは私一個のこと、常に私一個のことであり、私一個のことにすぎない。しかしああ、それらすべては自己主義である。自己主義の種々の形ではあるが、とにかく自己主義たる事は一つである。もし今少しく他人のことを考えたならば! およそ第一の神聖は他人のことを考えることである。さあ少し考えてみなければいけない。自己を除外し、自己を消し、自己を忘れてしまったら、すべてそれらのことはどうなるであろう?――もし私が自首して出たら? 人々は私を捕え、そのシャンマティユーを許し、私を徒刑場に送るであろう。それでよろしい。そして? ここはどうなるであろう。ああここには、一地方、一つの町、多くの工場、一つの工業、労働者、男、女、老人、子供、あわれなる人々がある。それらのものを私はこしらえた。私はそれらを生かしてやった。すべて煙の立ちのぼる煙筒のある所、その火のうちに薪《まき》を投じその鍋《なべ》のうちに肉を入れてやったのは、私である。私は安楽と流通と信用とをこしらえてやった。私の来る前には何もなかったのだ。私はこの地方全部を引き上げ、活気立たせ、にぎわし、豊かにし、刺激し、富ましてやった。私がなければ魂がないようなものだ。私が取り去らるれば、すべては死滅するであろう。――そして、あれほど苦しんだあの女、堕落のうちにもなおあれほどのいいものを持っているあの女、思いがけなく私がそのあらゆる不幸の原因となったあの女! そして、その母親に約束して自らさがしにゆくつもりであったあの子供! 私は自分のなした悪の償いとしてあの女に何か負うところはないのか。もし私がいなくなればどうなるであろう。母親は死ぬであろう。そして子供はどうなるかわからない。私が自首して出れば、結果はそんなものである。――もし自首しないならば? まてよ、もし私が自首して出ないとするならば?」
自らそう問いかけた後に、彼はちょっと考えを止めた。彼はしばし躊躇《ちゅうちょ》と戦慄《せんりつ》とを感じたようだった。しかしそういう時間は長くは続かなかった。そして彼は静かに自ら答えた。
「ところであの男は徒刑場にゆく。それは事実だ。しかし仕方もない、彼は盗みをしたのだ。私がいくら彼は盗みをしなかったと言ってもむだである、彼は実際盗んだのだから。私はここにとどまっていよう。続けて働こう。十年のうちには千万の金をこしらえ、それをこの地方にふりまこう。少しも自分の身にはつけまい。身につけて何になろう。私がなすことはみな自分のためではないのだ。人々の繁栄は増すだろう。工業は盛んになり活気立ってくる。大小の工場は増加してくる。家は百となり千となり、また幸福になる。人民はふえる。田畑であった所には村ができ、荒地であった所には田畑ができる。貧困は後をたち、それとともに放逸や醜業や窃盗や殺害や、あらゆる不徳、あらゆる罪悪は、みな消え失せる。あのあわれな女も自分の子供を育てる。そしてこの地方全部が富み栄え正直になるのだ! ああ実に、私は愚かで誤っていた。自首して出るとは、まあ何ということを言ったのだろう。実際よく注意しなければいけない、何事もあわててはいけない。なに、偉大な高潔なことをなすのを好んだからというのか。結局それは一つのお芝居《しばい》に過ぎないのだ。なぜなら私は自分のこと、自分だけのことしか考えなかったのだから。どこの奴《やつ》ともわからない盗人を、明らかに賤《いや》しむべき一人の男を、多少重すぎはするがしかし実は正当である刑罰から救わんがために、一地方全部が破滅しなければならないというのか。一人のあわれな女が病舎で死に、一人のあわれな子供が路傍にたおれなければならないというのか、犬のように! ああそれこそのろうべきことである。母親はその子供を再び見ることもなく、子供は自分の母親をほとんど知りもしないで終わる。そしてそれもみな、林檎《りんご》を盗んだあの老耄《おいぼれ》のためというのか。たしかに彼奴《あいつ》だって、林檎のためでなくとも、何か他のことで徒刑場にはいってもいい奴だろう。一人の罪人を助けて罪ない多くの人を犠牲にするとは、徒刑場にいても自分の茅屋《ぼうおく》にいてもあまりその不幸さに変わりもなく、またせいぜい四、五年とは生きてもすまい老いぼれの浮浪人を助けて、母親や妻や児やすべての住民を犠牲にするとは、何という結構な配慮なのか。あの小さなあわれなコゼットは、世の中に助けとなるものは私だけしか持たない、そして今では、あのテナルディエの怪しい家で寒さのためにきっと青くなってるだろう。そこにもまた悪党がいる。そして私はこれらのあわれな人々に対する自分の義務を欠こうとしている。自首して出ようとしていた。何というばかなことをしようとしたのか。まず悪い方から考えるとして、かくするのは自分にとって悪い行ないであると仮定し、他日私の本心はそれを私に非難すると仮定しても、自分だけにしか当たらないそれらの非難を、自分の魂だけにしかかかわらないその悪い行ないを、他人の幸福のために甘んじて受けること、そこに献身があり、そこに徳行があるではないか。」
彼は立ち上がった、そして歩き初めた。こんどは自ら満足であるような気がした。
金剛石は地下の暗黒のうちにしか見いだされぬ。真理は思想の奥底にしか見いだされぬ。その奥底に下がった後、その最も深い暗黒のうちを長く探り歩いた後、金剛石の一つを、真理の一つを、彼はついに見いだしたと思った。そしてそれをしかと手に握っていると思った。彼はそれをながめて眩惑《げんわく》した。
「そうだ、そのとおりだ。」と彼は考えた。「これが本当のことだ。私は解決を得た。ついには何かにしかとつかまらなければいけない。私の決心は定まった。なるままに任せよう。もう迷うまい。もう退くまい。これはすべての人のためであって、自分一個の利害のためではない。私はマドレーヌである、またマドレーヌのままでいよう。ジャン・ヴァルジャンなる人は不幸なるかな! それはもはや私ではない。私はそんな人を知らない。私はもはやそれが何であるかを知らない。今だれかがジャン・ヴァルジャンになっているとするなら、その人自身で始末をつけるがいい。それは私の関係したことではない。それは実に暗夜のうちに漂っている不運の名前である。もしそれがだれかの頭上にとどまり落ちかかったとすれば、その人の災難とあきらめるのほかはない。」
彼は暖炉の上にあった小さな鏡の中をのぞいた。そして言った。
「おや、決心がついたので私は安堵《あんど》したのか! 私は今まったく生まれ変わったようになった。」
彼はなお数歩あるいた、そしてふいに立ち止まった。
「さあ、一度決心した以上はいかなる結果になろうとたじろいではいけない。」と彼は言った。「私をあのジャン・ヴァルジャンに結びつけるひもはなお残っている。それを断ち切らなければいけない。ここに、この室の中に、私を訴える品物が、証人となるべき無言の品物が、なお残っている。事は決した。すべてそれらのものをなくしてしまわなければいけない。」
彼はポケットを探って、紙入れを取り出し、それを開いて、中から小さな一つの鍵《かぎ》を引き出した。
彼はその鍵をある錠前の中に差し入れた。その錠前は、壁にはられてる壁紙の模様の最も暗い色どりの中に隠されていて、ちょっと見てはその鍵穴も見えないくらいだった。がそこに、隠し場所が、壁の角と暖炉棚との間にこしらえられた一種の戸棚みたようなものがあいた。中にはただ少しのつまらぬ物がはいっていた、青い麻の仕事着と、古いズボンと、古い背嚢《はいのう》と、両端に鉄のはめてある大きな刺々《とげとげ》の棒とが。一八一五年十月にディーニュを通って行った頃のジャン・ヴァルジャンを見た人はその惨《みじ》めな服装の品々をよく見覚えているであろう。
彼は自分の出発点を常に忘れないために、銀の燭台をしまっておいたと同じようにそれらをしまっておいたのである。ただ彼は徒刑場からきたそれらのものを隠し、司教からきた燭台を出しておいたのだった。
彼はちらと扉《とびら》の方を見やった。閂《かんぬき》で閉ざしておいたのがなお開きはしないかと恐れるかのように。それからにわかに急に身を
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