の門に出会い、その前に躊躇《ちゅうちょ》した。ここにもまた吾人《ごじん》の前に、くぐるを躊躇せざるを得ない門がある。しかしてあえてそれをくぐってみよう。
 あのプティー・ジェルヴェーの事件の後ジャン・ヴァルジャンにいかなる事が起こったかについては、読者の既に知っていること以外にあまり多くつけ加える要はない。その時以来、前に述べたとおり彼はまったく別人になった。司教が彼に望んだことを彼は実現した。それはもはや単なる変化にあらずして変容であった。
 彼は首尾よく姿を隠し、記念として燭台《しょくだい》のみを残して司教からもらった銀の器具を売り払い、町より町へと忍び行き、フランスを横ぎり、モントルイュ・スュール・メールにきて、前に述べたとおりのことを考えつき、前に物語ったとおりのことを仕とげ、押さえられ手をつけられることのないようになって、そして爾来《じらい》、モントルイュ・スュール・メールに居を定め、過去のために悲しい色に染められたおのれの心と、後半生のために夢のごとくなった前半生とを感じながら、心楽しく、平和と安心と希望とをいだいて生活していた。そしてもはや二つの考えしか持っていなかった。すなわち、おのれの名前を隠すことと、おのれの生を清めること、人生をのがれることと、神に帰ること。
 その二つの考えは彼の心のうちに密接に結ばれ合って、ただ一つのものとなっていた。二つとも等しく彼の心を奪い彼を従え、その些細《ささい》な行為をも支配していた。そして普通は両者一致して彼の世に処する道を規定し、彼を人生の悲惨なものの方へ向かわしめ、彼を親切にまた質朴ならしめ、彼に同じ助言を与えていた。けれども時としては両者の間に争いがあった。その場合には、読者の記憶するごとく、モントルイュ・スュール・メールのすべての人が呼んでもってマドレーヌ氏としたその人は、第一を第二のものの犠牲とし、自己の安全を自己の徳行の犠牲とすることに躊躇《ちゅうちょ》しなかった。かくて彼は、あらゆる控え目と用心とにもかかわらず、司教の二つの燭台を保存しておき、司教のために喪服をつけ、通りすがりのサヴォアの少年を呼んでは尋ね、ファヴロールにおける家族らのことを調べ、ジャヴェルの不安な諷諭《ふうゆ》をも顧みずして、フォーシュルヴァン老人の生命を救ったのである。前に述べたごとく、彼は賢人聖者または正しき人々にならって、おのれの第一の義務は自己に対するものではないと思っているらしかった。
 しかしながら、こんどのようなことはいまだかつて彼に起こったことがなかったのである。われわれがここにその苦悩を述べつつあるこの不幸な人を支配していた二つの考えが、かくも激しく相争ったことはかつてなかったのである。ジャヴェルが書斎にはいってきて発した最初の言葉において、彼は早くも漠然《ばくぜん》としかし深くそれを感じた。地下深く埋めておいたあの名前が意外にも発せられた瞬間には、彼は唖然《あぜん》としておのれの運命の恐ろしくも不可思議なのに惘然《ぼうぜん》としてしまったかのようだった。そしてその呆然《ぼうぜん》たるうちに、動乱に先立つ一種の戦慄《せんりつ》を感じた。暴風雨の前の樫《かし》の木のごとく、襲撃の前の兵士のごとく、彼は身をかがめた。迅雷《じんらい》と電光とのみなぎった黒影が頭上をおおうのを感じた。ジャヴェルの言葉を聞きながら彼には、そこにかけつけ、自ら名乗っていで、シャンマティユーを牢《ろう》から出して自らそこにはいろうという考えが、第一に浮かんだ。それは肉体を生きながら刻むほどの苦しいたえ難いことであった。が次にそれは過ぎ去った。そして彼は自ら言った、「まてよ! まてよ!」彼はその最初の殊勝な考えをおさえつけ、その悲壮な行ないの前にたじろいだ。
 もとより、あの司教の神聖なる言葉をきいた後、長い間の悔悛《かいしゅん》と克己との後、みごとにはじめられた贖罪《しょくざい》の生活の最中に、かくも恐ろしき事情に直面しても少しも躊躇《ちゅうちょ》することなく、底には天国がうち開いているその深淵《しんえん》に向かって同じ歩調でもって進み続けたならば、それはいかにりっぱなことであったろう。しかしいかにりっぱなことであったろうとはいえ、そうはゆかなかったのである。われわれは彼の魂のうちにいかなることが遂げられつつあったかを明らかにしなければならない。そしてわれわれはその魂のうちにあったことのみをしか語ることを得ない。まず第一に彼を駆ったところのものは、自己保存の本能であった。彼はにわかに考えをまとめ、感情をおし静め、大危険物たるジャヴェルがそこにいることを考え、恐怖のためにすべての決心を延ばし、おのれの取るべき道に対する考察を捨て、戦士が楯《たて》を拾い上げるようにおのれの冷静を回復した。
 その一日の残りを彼はそういう状態のうちに過ごした、内心の擾乱《じょうらん》と外部の深い平静とをもって。いわゆる「大事を取る」ということをしか彼はしなかった。すべてはまだ脳裏に漠然と紛乱していた。何らのまとまった観念も認められないほどにその擾乱は激しかった。ただある大なる打撃を受けたということのほかは、彼自らも自分自身がわからなかったであろう。彼は平素のとおりファンティーヌの病床を見舞い、親切の本能からいつもより長くそこにとどまり、自分のなすべきことを考え、万一不在になる場合のために、彼女を修道女たちによく頼んでおかなければならないと思った。アラスへ行かなければなるまいとぼんやり感じた。が少しもその旅を心に決したのではなかった。実際のところ何らの疑念をも被るわけはないので、これからの裁判に列席しても何ら不都合はないとひそかに考えた。そしてあらゆる事変の準備を整えておくために、スコーフレールの馬車を約束した。
 彼はかなりよく食事もした。
 自分の室に帰って彼は考え込んだ。
 彼は自分の立場を考えて、それが異常なものであることを知った。あまりに異常だったので、ほとんど名状し難いある不安な衝動に駆られて、黙想の最中にわかに椅子《いす》から立ち上がり、戸を閉ざし閂《かんぬき》をさした。何かが更にはいってきはしないかを恐れた。何か起こるかも知れないことに対して身を護った。
 間もなく彼は燈火《あかり》を消した。それがわずらわしかったのである。
 だれかが自分を見るかも知れないと彼は思ったらしい。
 だれが? 人が?
 悲しいかな、彼が室に入れまいとしたところのものは、既にはいってきていた。彼がその目を避けようとしたところのものは、既に彼を見つめていた。彼の本心が。
 彼の本心、すなわち神が。
 けれども初めは、彼は自ら欺いていた。彼は安全と孤独とを感じた。閂をして彼はもうだれにもつかまることがないと思った。蝋燭《ろうそく》を消して彼はもうだれにも見らるることがないと思った。そこで彼はほっと安心した。両肱《りょうひじ》をテーブルの上につき、掌《てのひら》に頭をささえ、暗やみのうちで瞑想《めいそう》しはじめた。
「自分はいったいどこにいるのか。――夢を見ているのではないのか。――何を聞いたのか。――ジャヴェルに会って彼があんなことを言ったのは本当なのか。――そのシャンマティユーというのはいったいだれなのか。――では自分に似ているのか。――そんなことがあり得ようか。――昨日は自分はあれほど落ち着いていて何一つ夢にも知らなかったのに。――で昨日の今時分は何をしていたのであろう。――このできごとはいったいどういうのか。――終わりはどうなるのか。――どうしたらいいか。」
 そういう苦悶《くもん》のうちに彼はあった。彼の頭脳はいろいろの考えを引き止める力を失っていた。考えは波のように過ぎ去って行った。彼はそれを捕えようとして、両手のうちに額《ひたい》を押しあてた。
 彼の意志と理性とをくつがえしたその擾乱《じょうらん》、彼がそのうちから一つの的確なものを引き出し、一つの決心を引き出さんとしたその擾乱、それからはただ心痛のほか何物も出てこなかった。
 彼の頭は燃えるようだった。彼は窓の所へ行って、それをいっぱいに開いた。空には星もなかった。彼はまたテーブルの所へきてすわった。
 初めの一時間はかくして過ぎた。
 そのうちしだいに漠然《ばくぜん》たる輪郭が瞑想のうちに浮かんできて一定の形を取るようになった。そして彼は自分の立場の全体ではないが、いくらかの局部を、現実の明確さをもってつかむことができた。
 その立場はいかにも異常なものであり危急なものであるにしても、自分はまったくその主人公であることを、彼は認めはじめた。
 彼の困惑はますます増すばかりだった。
 彼の行為の目ざしていた厳格な宗教的目的をほかにしては、彼が今日までなしきたったすべてのことは、自分の名を埋めんがために掘る穴にほかならなかった。自ら顧みる時、眠れぬ夜半において、彼が最も恐れたところのものは、その名前が人の口から出るのを聞くことであった。その時こそ自分に取ってはすべての終わりであると思っていた。その名前が再び世に現われる時こそは、この新生涯も自分の周囲から消滅し、またおそらくはこの新しい魂も自分のうちに消滅するであろうと。彼はそういうことがあるかも知れないと思っただけで身を震わした。もしそういうおりにだれかが彼に向かって、やがて時が来るであろう、その名前が彼の耳に鳴り響き、その嫌悪《けんお》すべきジャン・ヴァルジャンという名前が突然夜の暗黒から姿を現わして彼の前につっ立ち、彼が身を包んでいる秘密の幕を消散させる恐るべき光が彼の頭上に突然輝くであろう、そしてまた、その名前はもはや彼を脅かさないであろう、その光はますますやみを濃くなすのみであろう、引き裂かれた幕はなおいっそう秘密を増させるであろう、その地震はかえって建物を堅固にするであろう、その異常なでき事は、もし彼が欲するならば、彼の存在を同時にいっそう明らかにしいっそう不可測ならしむるという以外の結果はきたさないであろう、そして、そのジャン・ヴァルジャンの幻と面を接することによって、りっぱな一個の市民たるマドレーヌ氏はいよいよ光栄と平和と尊敬とを得るに至るであろう――そうだれかが彼に向かって言ったとしても、彼は頭を振って、それらの言葉を狂人の戯言となしたであろう。しかるにそれらのことがまさしく起こったのである。すべてそれらの不可能事と思われたことは事実となった。そして神は、それらの荒唐事が現実の事となるのを許したもうたのであった。
 彼の妄想《もうそう》はますます明るくなってきた。彼は漸次に自分の立場を了解してきた。
 彼は何かある眠りからさめたような気がした。そして、立ちながら、震えながら、いたずらに足をふみ止めようとしながら、暗黒のうちに急坂を深淵の縁まですべり落ちてゆくような思いをした。彼はやみの中に、見知らぬ一人の男をはっきりと見た。運命はその男を彼と取り違えて、彼の代わりに深淵のうちにつき落とそうとしている。その淵が再び閉ざされるためには、だれかが、彼自身かもしくはその男かが、そこに陥らなければならなかった。
 彼は成り行きに任せるのほかはなかった。
 明るみは十分になってきた。彼は次のことを自ら認めた。「徒刑場において自分の席はあいている。いかにつとめても、その空席は常に自分を待っている。プティー・ジェルヴェーからの盗みは自分をそこに連れ戻すのである。自分がそこに行くまでは、その空席は自分を待ち自分をひきつけるであろう。それは避くべからざる決定的なことである。」そして次にまた彼は自ら言った。「今自分は一人の代人を持っている。そのシャンマティユーとかいう男は運が悪かったのだ。自分は以後、そのシャンマティユーという男において徒刑場にあり、またマドレーヌの名の下に社会にある。もはや何も恐るべきことはない。ただシャンマティユーの頭の上に、墓石のごとく一度落つれば再び永久に上げられることのないその汚辱の石がはめらるるままにしておけばよいのだ。」
 それらのことはいかにも荒々しく不可思議だったので、彼のう
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