ンティーヌは答えた。「それどころか、恐ろしい病気にかかってる私《あたし》の子供もね、助けがなくて死ぬようなこともないでしょう。これで安心だわ。」
そう言いながら彼女は、テーブルの上に光っているナポレオン金貨二つを婆さんに指《さ》し示した。
「あらまあ!」とマルグリットは言った。「大変なお金! どこからそんな金貨を手に入れたの。」
「手にはいったのよ。」とファンティーヌは答えた。
と同時に彼女はほほえんだ。蝋燭《ろうそく》の光は彼女の顔を照らしていた。それは血まみれの微笑だった。赤い唾液《だえき》が脣《くちびる》のはじに付いていて、口の中には暗い穴があいていた。
二枚の歯は抜かれていた。
彼女はその四十フランをモンフェルメイュに送った。
がそれは、金を手に入れんためのテナルディエ夫婦の策略だったのである。コゼットは病気ではなかった。
ファンティーヌは鏡を窓から投げ捨てた。もうよほど前から彼女は三階の室から、ただ※[#「金+饌のつくり」、第4水準2−91−37]《かきがね》の締まりだけの屋根裏の室に移っていた。天井と床《ゆか》とが角度をなしていて絶えず頭をぶっつけそうな屋根裏だった。そこに住む者は、その室の奥に行くにはちょうど自分の運命のどん底へ行くように、しだいに低く身をかがめなければならない。ファンティーヌはもう寝台も持たなかった。ただ残っていたものは、掛けぶとんと自ら言っていた襤褸《ぼろ》と、床にひろげた一枚の敷きぶとんと、藁《わら》のはみ出た一脚の椅子だけだった。小さな薔薇《ばら》の鉢植《はちう》えを持っていたが、それも忘られて室の片すみに枯れしぼんでいた、他の片すみにはバタ用の壺《つぼ》があって水がはいっていたが、冬にはその水が凍って、氷の丸い輪で幾度も水のさされた跡がながく見えていた。彼女は前から羞恥の感を失っていたが、また身だしなみの心をも失った。そうなってはもうおしまいである。彼女はよごれた帽子をかぶって外に出かけた。暇がないのか、また平気になったのか、もう下着を繕いもしなかった。靴足袋は踵《かかと》が切れるに従って靴の中に引き下げてはいた。縦にしわが寄ってるのでそうしてるのがよく外からでもわかった。コルセットが古くなってすり切れると、すぐに裂けそうなキャラコの布でつぎを当てた。貸しのある人々は彼女をいじめ続けて、少しの休息をも与えなかった。彼女はそういう者らに往来でも出会い、家の階段でもまた出会った。彼女は幾晩も、泣き明かしまた考え明かした。目は妙に輝き、肩には左の肩胛骨《かいがらぼね》の上あたりに始終痛みを覚えた。咳も多くなった。彼女は深くマドレーヌさんを憎んだ、それでも少しも不平はもらさなかった。日に十七時間縫い物をした。しかし監獄の仕事請負人が、安く女囚徒らに仕事をさしたので、にわかにその仕事の賃金が少なくなって、普通の工女の一日分の賃金は九スーになってしまった。日に十七時間働いてしかも九スー! 債権者らはますます苛酷になった。古道具屋はほとんどすべての道具を取り戻したのだったが、なお絶えず言った、「いつになったら払おうというんだ、太《ふて》え女《あま》め。」いったい彼らは彼女をどうするつもりなのか! 彼女はいつも追いまわされてるような気がした。そしてしだいに彼女のうちには野獣のような何かが芽を出してきた。その頃またテナルディエからも手紙がきた。今まではあまりに気をよくして待っていたが、こんどはすぐ百フラン送るよう、さもなければ、あの大病から病み上がりの小さなコゼットをこの寒空に往来に追い出すばかりだ、そしたらどうとでもなるがいい、勝手にくたばってしまうがいい。「百フラン」とファンティーヌは考えた、「だが、日に百スーでももうけられる仕事がどこにあろう?」
「いいわ!」と彼女は言った、「身に残ってる一つのものを売ることにしよう。」
不幸な彼女は売笑婦となった。
十一 キリストわれらを救いたもう
このファンティーヌの物語はそもそも何を意味するか? それは社会が一人の女奴隷を買い入れたということである。
そしてだれから? 悲惨からである。
飢渇と寒気と孤独と放棄と困苦とからである。悲しき取り引き、一片のパンと一つの魂との交換、悲惨は売り物に出し、社会は買う。
イエス・キリストの聖なる法則はわが文明を支配する。しかしながらなおそれは文明の底まで徹してはいない。奴隷制度は欧州文明から消滅したと人は言う。しかしそれは誤りである。なおやはりそれは存在している。ただもはや婦人の上にのみしか残っていないというだけである。そしてその名を売淫《ばいいん》という。
それは婦人の上、換言すれば、優しきもの、弱きもの、美しきもの、母なるものの上に、かぶさっている。このことは男子の少なからざる恥辱でなければならない。
われわれが見きたったこの痛ましき物語もここに及んでは、ファンティーヌにはもはや昔の面影は何物も残っていない。彼女は泥のごとくよごれるとともに大理石のごとく冷たくなっている。彼女に触れる者は皆その冷ややかさを感ずる。彼女は流れ歩き、男を受け入れ、しかもその男のだれなるやを知らない。彼女の顔は屈辱と冷酷とのそれである。人生と社会の秩序とは、彼女に最後の別れを告げた。きたるべきすべてのものは彼女にきた。彼女はすべてを感じ、すべてを受け、すべてを経験し、すべてを悩み、すべてを失い、すべてを泣いた。あたかも死が眠りに似ているように、無関心に似たあきらめを彼女はあきらめた。彼女はもはや何物をも避けない。もはや何物をも恐れない。雲霧落ちきたらばきたれ、大海襲いきたらばきたれ。それが何ぞや! もはや水に浸され終わった海綿である。
少なくとも彼女自らはそう信じていた。しかしながら、もはや運命を知りつくし、いっさいの事のどん底に落ちたと思うことは、一つの誤りである。
ああ、かくのごとく無茶苦茶に狩り立てられたこれらの運命は何を意味するか? それはどこへ行くか? 何ゆえにかくのごとくなったのであるか?
それを知る者は、いっさいの暗き所をも見通す者である。
それはただ一人。それを神という。
十二 バマタボア氏の遊惰
すべての小都市には、そして特にモントルイュ・スュール・メールには、一種の青年らがあった。彼らはその同輩がパリーにおいて年に二十万フランを消費すると同じに、地方において年に千五百フランの定収入を浪費する。彼らは中性の大種類に属する。去勢者、寄食者、無能力者ともいうべきもので、少しの土地と少しの無分別と少しの機才とを持っており、社交裏《しゃこうり》に出ては田舎者でありながら、居酒屋においては一かどの紳士だと自惚《うぬぼ》れている。「僕の牧場、僕の森林、僕の小作人」などという口をきく。芝居《しばい》の女優を喝采《かっさい》してはおのれの趣味を示さんとし、兵営の将校と争論してはおのれの勇者なるを衒《てら》い、狩猟をし、煙草をふかし、欠伸《あくび》をし、酒を飲み、嗅煙草《かぎたばこ》をかぎ、撞球《たまつき》をし、駅馬車からおりる旅人に目をつけ、カフェーに入りびたり、飲食店で食事をする。食卓の下では連れている犬に骨をしゃぶらし、その上では情婦に御ちそうをする。一スーを憎しみ、流行を競い、悲劇を賞賛し、婦人を軽蔑し、古靴をすりへらし、パリーを介してロンドンのふうをまね、ポン・タ・ムーソンを介してパリーのふうをまね、年を取るとともに愚かになり、何の仕事もせず、何の役にも立たず、また大した害にもならないのである。
フェリックス・トロミエス君も、田舎にいてパリーを知らなかったなら、この種の人間になったことであろう。
もし彼らがいくらか金持ちであれば、しゃれ者と言われ、もしいくらか貧乏であれば、なまけ者と言われるところである。がみな単に閑人《ひまじん》である。それらの閑人のうちには、厄介者もあり、退屈してる者もあり、夢想家もいれば、変わった男もいる。
その頃、しゃれ者といえば、高いカラーをつけ、大きなえり飾りをつけ、金ぴかの時計を持ち、色の違った三枚のチョッキを青や赤を下にして重ねて着、胴が短く後が魚の尾のようになってるオリーブ色の上衣をつけ、たくさん密に並んだ二列の銀ボタンを肩の所までつけ、ズボンはそれよりやや明るいオリーブ色で、両方の縫い目には幾つかの筋飾りをつけていて、その数は一から十一までの間できまってなかったが、必ず奇数で、また十一を限度としたものだった。それに加うるに、踵に小さな鉄のついた半靴に、縁の狭い高帽、長い髪の毛、大きなステッキ、ポアティエもどきの洒落《しゃれ》を交じえた会話。とりわけ、拍車と口|髭《ひげ》。当時、口髭は市民のしるしであり、拍車は徒歩の人のしるしであった。
田舎のしゃれ者は特に長い拍車をつけ、特に勢いよい口髭をのばしていた。
それはちょうど、南米の諸共和国がスペイン国王と争っていた折で、ボリヴァル([#ここから割り注]訳者注 南米の将軍[#ここで割り注終わり])とモリロ([#ここから割り注]訳者注 スペインの将軍[#ここで割り注終わり])とが争闘していた頃だった。縁の狭い帽子を被ってるのは王党でモリロ派と称し、自由党の方は広い縁の帽子をかぶってボリヴァル派と称していた。
さて前述の事件があってから八カ月か十カ月ばかり後、一八二三年の正月の初め、雪の降ったある晩、この種のしゃれ者の一人であり、閑人《ひまじん》の一人であり、モリロ派の帽をかぶってるので「正統派」と呼ばれている一人の男が、寒中の流行の一つである大きなマントに暖かく身を包んで、士官らの集まるカフェーの窓の前をうろついて、一人の女をからかっておもしろがっていた。女は夜会服をつけ首筋を露《あら》わにし頭には花をさしていた。そして彼しゃれ者は煙草をふかしていた、なぜなら煙草をふかすのはまさしく時の流行であったから。
女が前を通るたびに、彼は葉巻きの煙とともに悪態を投げつけていた。彼は自分ではその悪口を巧みなおもしろいものと思っていたが、まずこんなものに過ぎなかった。「やあまずい顔だね!……いい加減に身を隠したがいいね!……歯がないんだね!……云々《うんぬん》。」その男の名はバマタボア氏といった。女は雪の上を行ききしてるただ化粧をしたというばかりの陰気な幽霊のような姿で、彼に返事もしなければふり向きもしなかった。そしてやはり黙ったまま陰鬱《いんうつ》に規則的にそこを歩き回って、笞刑《たいけい》を受ける兵士のように五分間ごとに男の嘲罵《ちょうば》の的となっていた。嘲罵の反応があまりないので、閑人《ひまじん》はひどくきげんをそこねたに違いない。彼は女が向こうへ通りすぎた機会をねらって、笑いをこらえながら抜き足で女の後ろに進んでいって、身をかがめて舗石《しきいし》の上から一握りの雪を取り、不意にそれを女の露《あら》わな両肩の間の背中に押し込んだ。女は叫び声を立て、向き返って、豹《ひょう》のようにおどり上がり、男に飛びつき、あらん限りの卑しい恐ろしい悪態とともに男の顔に爪を突き立てた。ブランデーのために声のかれたその罵詈《ばり》は、なるほど前歯の二本なくなってる口から醜くほとばしり出ていた。女はファンティーヌであった。
その騒ぎに、士官らはいっしょにカフェーから出てき、通行人は足を止め、大きな円を作って群集は笑いののしりまた喝采《かっさい》した。そのまん中に二人は旋風のように取り組み合っていた。それが男と女とであることも見分け難いほどだった。男は帽子を地に落したまま身をもがいていた。女は帽子もなく前歯も髪の毛もなく、憤怒に青くなって恐ろしい様子でわめき立てながら、なぐりつけ蹴《け》りつけていた。
と突然、背の高い一人の男が、群集の中から飛び出して、女の泥にまみれた繻子《しゅす》の胴着をつかんで言った。「ちょっとこい!」
女は頭を上げた。その狂気のようなわめき声は急に止まった。目はどんよりとし、青白かった顔色は真っ青になり、恐怖にぶるぶる身を震わした。彼女はジャヴェルを見て取った
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