ゆく方法を教えてくれた。わずかの金で暮らしてゆくその先には、また一文なしで暮らしてゆくということがある。それは引き続いた二つの室で、第一のは薄暗く、第二のは真っ暗である。
 ファンティーヌはいろいろなことを覚えた。冬の間まったく火の気なしですますこと、二日ごとに四、五文だけの粟《あわ》を食う小鳥を捨ててしまうこと、裾衣をふとんにしふとんを裾衣に仕立て直すこと、正面の窓の明りで食事をして蝋燭《ろうそく》を倹約することなど。貧乏と正直とのうちに老い果てた弱い人々が一スーの金をどんなふうに使うかは、人の知らないところである。それはついに一つの才能ともなるものである。ファンティーヌはそのおごそかな才能を会得した、そして少しは元気を回復した。
 この時分に彼女はある近所の女に言った。「なあに私はこう思っていますわ。五時間だけ眠ってあとの時間に針仕事をしていったら、どうかこうかパンだけは得てゆけるでしょう。それに悲しい時には少ししか食べませんもの。苦しみや気使い、一方に少しのパンと一方に心配、それでどうにか生きてゆけますでしょう。」
 かような艱難《かんなん》のうちにも、自分の小さな娘がもしそばにいたらどんなにかしあわせであろうものを。彼女は娘を呼び寄せようと思った。けれどもそれでどうしようというのか! 娘に困窮を分かち与ようというのか。それからテナルディエにも負債になっている。どうして払われよう。そしてまた旅。その費用は?
 彼女に貧乏生活の教えとでもいうべきものを与えてくれた婆さんは、マルグリットという聖《きよ》い独身者で、りっぱな信仰を持ち、貧乏ではあるが、貧しい者のみでなく金持ちに対してまで恵み深く、マルゲリト[#「マルゲリト」に傍点]と署名するだけのことはりっぱに知っており、また学問としては神を信ずることを知っていた。
 かかる有徳の人が下界にも多くいる。他日彼らは天国に至るであろう。かかる生命は未来を有しているものである。
 初めのうちファンティーヌは、非常に恥ずかしがってなるべく外へも出なかった。
 通りに出ると、皆が後ろから振り返って自分を指さすのを彼女は気づいていた。皆が彼女をながめてゆくが、あいさつする者は一人もなかった。通りすぎる人々の冷ややかな鋭い軽蔑は、朔風《きたかぜ》のように彼女の肉を通し心を貫いた。
 小都市においては、一人の不幸な女がいる時、その女はすべての人のあざけりと好奇心との下に裸にせられずんばやまないようである。パリーにおいては、少なくともだれも顔を知った者がいない、そしてその暗黒は身を蔽《おお》う一つの衣となる。おお、いかにファンティーヌはパリーに行くことを望んだであろう! しかしそれは不可能だった。
 貧乏になれたように、彼女はまた軽蔑にもなれざるを得なかった。しだいに彼女はそれをあきらめていった。二、三カ月後には、恥ずかしさなどは振りすててしまって、何事もなかったかのように外出しはじめた。「どうだってかまうものか」と彼女は言った。彼女は頭を上げ、にがい微笑を浮かべながら往来した、そして自らだいぶ厚顔になったように感じた。
 ヴィクチュルニヤン夫人は時々彼女が通るのを窓から見かけた、そして自分のおかげで「本来の地位に戻されたあの女」の困窮を見て取って自ら祝した。心の悪い人々はさすがに暗黒な幸福を有しているものである。
 過度の労働はファンティーヌを疲らした。そして平素からの軽いかわいた咳《せき》が増してきた。彼女は時々隣のマルグリットに言った。「触《さわ》ってごらんなさい、私の手の熱いこと。」
 けれども朝に、こわれた古|櫛《ぐし》で素絹のように流れたきれいな髪をとかす時には、おめかしの一瞬を楽しむのであった。

     十 成功の続き

 ファンティーヌが解雇されたのは冬の末だった。そして夏が過ぎ、冬は再びきた。日は短く、仕事は少ない。冬、暖気もなく、光もなく、日中《にっちゅう》もなく、夕方はすぐ朝と接し、霧、薄明り、窓は灰色であって、物の象《すがた》もおぼろである。空は風窓のごとく、一日はあなぐらの中のようで、太陽も貧しい様子をしている。恐ろしい季節! 冬は空の水を石となし、人の心をも石となす。その上ファンティーヌは債権者らに悩まされていた。
 彼女のもうける金はあまりにも少なかった。負債は大きくなっていた。金がこないのでテナルディエの所からは始終手紙をよこした。彼女はその中の文句に脅え、またその郵税に懐《ふところ》をいためた。ある日の手紙によると、小さなコゼットはこの冬の寒さに着物もつけていない、どうしても毛織の裾着がいるので、少なくともそのために十フラン送ってくれということだった。ファンティーヌはその手紙を受け取って、終日それを手に握りしめていた。その晩彼女は通りの片すみにある理髪店にはいって、櫛をぬき取った。美しい金髪は腰の所までたれ下がった。
「みごとな髪ですね。」と理髪師は叫んだ。
「いかほどなら買えますか。」と彼女は言った。
「十フランなら。」
「では切って下さい。」
 彼女はその金で毛糸編みの裾着を買って、それをテナルディエの所へ送った。
 その据着はテナルディエ夫婦を怒らした。彼らが求めていたのは金であった。彼らはその裾着をエポニーヌへ与えた。あわれなアルーエットは相変わらず寒さに震えていた。
 ファンティーヌは考えた。「私の子供はもう寒くあるまい、私の髪を着せてやったのだから。」そして彼女は小さな丸い帽子をかぶって毛の短くなった頭を隠していたが、それでもなおきれいに見えた。
 ファンティーヌの心のうちにはある暗い変化が起こっていた。もはや髪を束ねることもできないのを知った時に、周囲の者すべてを憎みはじめた。彼女は長い間皆の人とともにマドレーヌさんを尊敬していた。けれども、自分を追い払ったのは彼であり、自分の不幸の原因は彼であると、幾度もくり返して考えてるうちに、彼をもまた、そして特に彼を、憎むようになった。職工らが工場の門から出て来るころ、その前を通るような時、彼女はわざと笑ったり歌ったりしてみせた。
 そんなふうにしてある時彼女が笑い歌うのを見た一人の年取った女工は言った、「あの娘も終わりはよくないだろう。」
 ファンティーヌは情夫をこしらえた。手当たり次第にとらえた男で、愛するからではなく、ただ傲慢《ごうまん》と内心の憤激とからこしらえたのだった。やくざな男で、一種の乞食《こじき》音楽者で、浮浪の閑人《ひまじん》で、彼女を打擲《ちょうちゃく》し、彼女が彼とでき合った時のように嫌悪の情に満たされて、彼女を捨てて行ってしまった。
 ファンティーヌは自分の娘だけは大事に思っていた。
 彼女が堕落してゆけばゆくほど、彼女の周囲が暗黒になればなるほど、そのやさしい小さな天使はいっそう彼女の魂の奥に光り輝いてきた。彼女はよく言っていた、「お金ができたら私コゼットといっしょに住もう。」そして笑った。咳《せき》はなお去らなかった、背中に汗をかいた。
 ある日彼女はテナルディエの所から次のような手紙を受け取った。「コゼットは土地に流行《はや》ってる病気にかかっている。粟粒疹熱《つぶはしか》と俗にいう病だ。高い薬がいる。そのため金がなくなって薬代がもう払えない。一週間以内に四十フラン送らなければ、子供は死ぬかも知れない。」
 ファンティーヌは大声に笑い出した、そして隣の婆さんに言った。「まあおめでたい人たちだわ。四十フランですとさ。ねえ、ナポレオン金貨二つだわ。どうして私《あたし》にそんなお金がもうけられると思ってるんでしょう。ばかなものね、この田舎の人たちは。」
 それでも彼女は軒窓の近くへ階段を上っていって、手紙を読み返した。
 それから彼女は階段をおりて、笑いながらおどりはねて出て行った。
 出会った人が彼女に言った。「何でそんなにはしゃいでるの。」
 彼女は答えた。「田舎の人たちがあまりばかばかしいことを書いてよこすんですもの。四十フラン送れですとさ。ばかにしてるわ。」
 彼女が広場を通りかかった時、そこには大勢の人がいて、おかしな形の馬車を取り巻いていた。馬車の平屋根の上には、赤い着物を着た一人の男が立って何か弁じ立てていた。それは方々を渡り歩く香具師《やし》の歯医者で、総入れ歯や歯みがき粉や散薬や強壮剤などを売りつけていた。
 ファンティーヌはその群集の中に交じって、卑しい俗語や上品な壮語の交じった長談義をきいて、他の人たちといっしょに笑いはじめた。歯医者はそこに笑っている美しい彼女を見つけて、突然叫び出した。「そこに笑っていなさる娘さん、あんたの歯はまったくきれいだ。お前さんのその羽子板を二枚売ってくんなさるなら、一枚についてナポレオン金貨一つずつを上げるがな。」
「何ですよ、私の羽子板というのは。」とファンティーヌは尋ねた。
「羽子板ですか、」と歯医者は言った、「なにそれは前歯のことですよ、上の二枚の歯ですよ。」
「まあ恐ろしい!」とファンティーヌは叫んだ。
「ナポレオン金貨二つ!」とそこにいた歯の抜けた婆さんがつぶやいた。「なんてしあわせな娘さんでしょう。」
 ファンティーヌは逃げ出した、そして男の嗄《しゃが》れた声を聞くまいとして耳を押さえた。男は叫んでいた。「考えてみなさい、別嬪《べっぴん》さん! ナポレオン金貨二つですぜ。ずいぶん役に立つね。もし気があったら、今晩ティヤック・ダルジャンの宿屋においでな、私はそこにいるから。」
 ファンティーヌは家に帰った。彼女は怒っていた。そしてそのことを親切な隣のマルグリット婆さんに話した。「いったいそんなことがあるものでしょうか。恐ろしい男じゃありませんか。どうしてあんな奴をこの辺に放《ほう》っておくんでしょう。私《あたし》の前歯二本を抜けなんて、ほんとに恐ろしいわ。髪の毛ならまた生《は》えもしようが、歯はね。ああ畜生! そんなことするくらいなら、六階の上から真っ逆様に舗石《しきいし》の上に身を投げた方がいいわ。今晩ティヤック・ダルジャンの宿屋に待っていると言ったわ。」
「そしていくら出すと言いました。」とマルグリットは尋ねた。
「ナポレオン二つだって。」
「では四十フランですね。」
「ええ、四十フランになるのよ。」とファンティーヌは言った。
 彼女は考え込んだ、そして仕事にかかった。やがて十五分もたつと、縫い物をやめて、階段の上へ行ってテナルディエの所からきた手紙をまた読んでみた。
 室に帰ってから彼女は、そばで仕事をしていたマルグリットに言った。「何でしょう、粟粒疹熱《つぶはしか》ってあなた知っていて?」
「ええ、」と婆さんは答えた、「ひどい病気ですよ。」
「では薬がたくさんいるでしょうか。」
「そうですとも、大変な薬が。」
「どうしてそんな病気にかかるんでしょう。」
「すぐにとっつく病気ですよ。」
「では子供にもあるんですね。」
「おもに子供ですよ。」
「その病気で死ぬことがあるんでしょうか。」
「ずいぶんありますよ。」とマルグリットは言った。
 ファンティーヌは室を出て行って、も一度階段の上で手紙を読んだ。
 その晩彼女は出かけて行った。そして宿屋の多いパリー街の方へ歩いてゆくのが見られた。
 翌朝マルグリットは夜明け前にファンティーヌの室へはいって行った。彼女らはいつもいっしょに仕事をして、二人で一本の蝋燭《ろうそく》ですましていたのである。見ると、ファンティーヌは青ざめて氷のようになって寝床の上にすわっていた。彼女は寝なかったのである。帽子は膝の上に落ちていた。一晩中ともされていた蝋燭は、もうほとんど燃え尽きていた。
 マルグリットはその大変取り乱れた光景にあきれて、敷居《しきい》の上に立ち止まった、そして叫んだ。
「おお! 蝋燭が燃えてしまっている。何か起こったに違いない!」
 それから彼女は、こちらへ髪のない頭を向けてるファンティーヌをながめた。
 ファンティーヌは一夜のうちに十歳も老《ふ》けてしまっていた。
「まあ!」とマルグリットは言った。「お前さんどうしたの。」
「何でもないわ。」とファ
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