皆、軽蔑と反感と嫌悪《けんお》とをもって見ていた。彼は絶対的であって、いっさいの例外を認めなかった。一方では彼は言った、「職務を帯びてるものは誤ることはない、役人は決して不正なことをしないものだ。」他方ではまた彼は言った、「こいつらはもう救済の途はない、何らの善もなし得ない者だ。」世には極端な精神を有していて、刑罰をなすの権利あるいは言い換えれば刑罰を定めるの権利を人間の作った法則が持っているように信じ、社会の底に地獄の川スティックスを認める者がいる。ジャヴェルもまたそういう意見を多分に持っていた。彼は禁欲主義で、まじめで、厳格であった。憂鬱《ゆううつ》な夢想家であった。狂信家のように謙遜でまた傲慢《ごうまん》であった。彼の目は錐《きり》のごとく、冷たくそして鋭かった。彼の一生は二つの言葉につづめられる、監視と取り締まりと。彼は世間の曲りくねったものの中に直線を齎《もたら》した。彼は自己の有用をもって良心となし、自己の職務をもって宗教となしていた。彼の探偵たることはあたかも牧師たるがごとくであった。彼の手中に落ちたる者は不幸なるかなである。彼は父がもし脱獄したらんには父を捕縛し、母がもし禁令を犯したらんには母をも告発したであろう。そして徳行によって得らるるごとき一種の内心の満足をもってそれをなしたであろう。その上に、貧しい生活、孤独、克己、純潔をもってし、何らの遊びにもふけらない。彼は厳格なる義務それ自身であり、あたかもスパルタ人らがスパルタに身をささげたがごとくに献身的な警官であり、無慈悲な間諜《かんちょう》であり、恐るべき正直さであり、冷酷なる探偵であり、名探偵ヴィドックのうちに住むブルツスであった。
ジャヴェルの全身は、物をうかがいしかも身を潜める男そのものを示していた。当時のいわゆる急進派新聞に高遠な宇宙形成論の色をつけていたジョゼフ・ド・メーストルを頭《かしら》とする神秘派は、必ずやジャヴェルを一つの象徴であると称《たた》えたであろう。彼の額は帽子の下に隠れて見えず、彼の目は眉毛に蔽《おお》われて見えず、その頤《あご》はえり飾りのうちに埋まって見えず、その両手は袖のうちに引っ込んで見えず、その杖はフロックの下に隠されて見えなかった。しかしながら一度時機至れば、角張った狭い額、毒々しい目付き、脅かすような頤、大きな手、および恐ろしい太い杖などが、その陰のうちから突然伏兵の立つように現われて来るのであった。
暇とてはめったになかったが、もし暇があれば彼は、書物はきらいではあったが、それでもなお何か読んでいた。してみれば、彼はまったくの無学ではなかったらしい。またそれは彼の言葉のうちの一種の大げさな調子でもわかることだった。
彼が何らの悪徳をも持たないことは、前に言ったとおりである。自ら満足に感じてる時には一服煙草を吸うことにしていた。そこだけが彼の普通の人間らしいところだった。
たやすく察せらるるとおり、ジャヴェルは、司法省の統計年鑑のうちに無頼漢[#「無頼漢」に傍点]と朱書せられてる一種の階級からは非常に恐れられていた。ジャヴェルという名は彼らを狼狽《ろうばい》さした。ジャヴェルの顔は彼らを縮み上がらした。
この恐ろしい男は上述のとおりの者であった。
ジャヴェルは絶えずマドレーヌ氏の上に据えられてる目のごときものだった。疑念と憶測とに満ちた目だった。マドレーヌ氏もついにそれを気づくようになった。しかし彼は別に何とも思っていないらしかった。ジャヴェルに一言の問いをもかけず、またジャヴェルの姿をさがすでもなく避けるでもなく、その気味悪い圧迫するような目付きをじっと受けながら別に気に留めてもいないらしかった。彼はジャヴェルをも他のすべての人と同じく平気で温和に取り扱っていた。
ジャヴェルの口からもれた二、三の言葉から察すれば、彼は彼ら仲間特有のそして意志とともにまた本能から由来する一種の好奇心をもって、マドレーヌさんが他の所に残してきた前半生の足跡を秘密に探っていたらしい。ある行方《ゆくえ》不明の一家族に関してある地方で多少の消息を得ている者がいるということを、彼は知っているらしかった、また時としては暗にそれを言葉に現わすこともあった。ある時などは彼はふとこう独語した、「彼奴の尻尾《しっぽ》を押さえたようだ!」それから彼は三日の間一言も口をきかずに考え込んでいた。そしてとらえたと思った糸も切れたらしかった。
しかしおよそ、そしてこれはある言葉はあまりに絶対的の意味を現わすかも知れないということに対する必要な緩和物であるが、人間のうちには真に確実なるものはあり得ないものである、そしてまた本能の特質は乱され惑わされ迷わされ得るということにあるものである。もししからずとすれば、本能は知力にまさり、動物は人間よりもすぐれたる光明を有するに至るであろう。
ジャヴェルは明らかに、マドレーヌ氏のまったくの自然さと落ち着きとによって、やや心を惑わされたのであった。
けれどもある日、彼の不思議な態度はマドレーヌ氏に印象を与えたらしかった。いかなる場合でかは次に述べよう。
六 フォーシュルヴァンじいさん
ある朝マドレーヌ氏は、モントルイュ・スュール・メールの敷石のない小さな通りを通っていた。その時彼は騒ぎを聞きつけ、少し向こうに一群の人々を認めた。彼はそこに行ってみた。フォーシュルヴァンじいさんと呼ばれている老人が、馬の倒れたため馬車の下に落ちたのだった。
このフォーシュルヴァンは、当時マドレーヌ氏がまだ持っている少数の敵の一人だった。マドレーヌがこの地にやってきた当時、以前は公証人をしていて田舎者としてはかなり教育のあるフォーシュルヴァンは、商売をしていたが、それがしだいにうまくゆかないようになりはじめていた。彼はその一職人がしだいに富裕になってゆくのを見、また人から先生と言われている自分がしだいに零落してゆくのを見た。それは彼に嫉妬《しっと》の念を燃やさした。そして彼はマドレーヌを害《そこな》うために機会あるごとにできるだけのことをした。そのうちに彼は破産してしまった。そして年は取っており、もはや自分のものとしては荷車と馬とだけであり、その上家族もなく子供もなかったので、食べるために荷馬車屋となったのだった。
さて馬は両脚《りょうあし》を折ったので、もう立つことができなかった。老人は車輪の間にはさまれていた。車からの落ち方が非常に悪かったので、車全体が胸の上に押しかかるようになっていた。車にはかなり重く荷が積まれていた。フォーシュルヴァンじいさんは悲しそうなうめき声を立てていた。人々は彼を引き出そうとしてみたがだめだった。無茶なことをしたり、まずい手出しをしたり、下手《へた》に動かしたりしようものなら、ただ彼を殺すばかりだった。下から車を持ち上げるのでなければ、彼を引き出すことは不可能だった。ちょうどそのでき事の起こった時にき合わしたジャヴェルは、起重機を取りにやっていた。
マドレーヌ氏がそこにやってきた。人々は敬意を表して道を開いた。
「助けてくれ!」とフォーシュルヴァン老人は叫んだ。
「この年寄りを助けてくれる者はいないか。」
マドレーヌ氏はそこにいる人々の方へふり向いた。
「起重機はありませんか。」
「取りに行っています。」と一人の農夫が答えた。
「どれくらいかかったらここにきますか。」
「一番近い所へ行っています、フラショーで。そこに鉄工場があります。しかしそれでも十五分くらいはじゅうぶんかかりましょう。」
「十五分!」とマドレーヌは叫んだ。
前の日雨が降って地面は湿って柔らかになっていた。車は刻一刻と地面にくい込んで、しだいに老荷馬車屋の胸を押しつけていった。五分とたたないうちに彼は肋骨《ろっこつ》の砕かれることはわかりきっていた。
「十五分も待てはしない。」とマドレーヌはそこにながめている農夫らに言った。
「仕方がありません!」
「しかしそれではもう間に合うまい。車はだんだんめいり込んでゆくじゃないか。」
「だと言って!」
「いいか、」とマドレーヌは言った、「まだ車の下にはいり込んで背中でそれを持ち上げるだけの余地はじゅうぶんある。ちょっとの間だ。そしたらこのあわれな老人を引き出せるんだ。だれか腰のしっかりした勇気のある者はいないか。ルイ金貨([#ここから割り注]訳者注 二十フランの金貨[#ここで割り注終わり])を五枚あげる。」
一群の中で動く者はだれもなかった。
「十ルイ出す。」とマドレーヌは言った。
そこにいる者は皆目を伏せた。そのうちの一人はつぶやいた。「滅法に強くなくちゃだめだ。その上自分でつぶされてしまうかも知れないんだ。」
「さあ!」マドレーヌはまた言った、「二十ルイだ!」
やはりだれも黙っていた。
「やる意志が皆にないのではない。」とだれかが言った。
マドレーヌ氏はふり返った、そしてジャヴェルがそこにいるのを知った。彼はきた時にジャヴェルのいるのに気がつかなかったのである。
ジャヴェルは続けて言った。
「皆にないのは力だ。そんな車を背中で持ち上げるようなことをやるのは、恐ろしい奴でなくてはだめだ。」
それから彼は、マドレーヌ氏をじっと見つめながら、一語一語に力を入れて言った。
「マドレーヌさん、あなたがおっしゃるようなことのできる人間は、私はただ一人きりまだ知りません。」
マドレーヌは慄然《ぞっ》とした。
ジャヴェルは無とんちゃくなようなふうで、しかしやはりマドレーヌから目を離さずにつけ加えた。
「その男は囚人だったのです。」
「え!」とマドレーヌは言った。
「ツーロンの徒刑場の。」
マドレーヌは青くなった。
そのうちにも荷車はやはり徐々にめいり込んでいっていた。フォーシュルヴァンは息をあえぎ叫んだ。
「息が切れる! 胸の骨が折れそうだ! 起重機を! 何かを! ああ!」
マドレーヌはあたりを見回した。
「二十ルイもらってこの老人の生命を助けようと思う者はだれもいないのか?」
だれも身を動かさなかった。ジャヴェルはまた言った。
「起重機の代わりをつとめる者はただ一人きり私は知りません。あの囚人です。」
「ああ、もう私はつぶれる!」と老人は叫んだ。
マドレーヌは頭を上げ、見つめているジャヴェルの鷹《たか》のような目付きに出会い、じっとして動かない農夫らを見、それから淋しげにほほえんだ。そして一言も発しないで、膝を屈《かが》め、人々があッと叫ぶ間もなく車の下にはいってしまった。
期待と沈黙との恐ろしい一瞬間が続いた。
マドレーヌがその恐ろしい重荷の下にほとんど腹|這《ば》いになって、二度|両肱《りょうひじ》と両膝《りょうひざ》とを一つ所に持ってこようとしてだめだったのが、見て取られた。人々は叫んだ。
「マドレーヌさん! 出ておいでなさい!」フォーシュルヴァン老人自身も言った。「マドレーヌさん、およしなさい! 私はどうせ死ぬ身です、このとおり! 私のことはかまわないで下さい! あなたまでつぶれます!」しかしマドレーヌは答えなかった。
そこにいる人々は息をはずました。車輪はやはり続いてめいり込んでいた。そしてもうマドレーヌが車の下から出ることはほとんどできないまでになった。
突然人々の目に、その車の大きい奴が動き出し、だんだん上がってき、車輪は半ば轍《わだち》から出てきた。息を切らした叫び声が聞えた。「早く! 手伝って!」マドレーヌが最後の努力をなしたのだった。
人々は突き進んだ。一人の人の献身がすべての者に力と勇気とを与えた。荷馬車は多数の腕で引き上げられた。フォーシュルヴァン老人は救われた。
マドレーヌは立ち上がった。汗が流れていたが青い顔をしていた。服は破れ泥にまみれていた。一同は涙を流した。その老人は彼の膝に脣《くちびる》をつけ、神様と呼んだ。彼は幸福な聖い苦難の言い難い表情を顔に浮かべていた、そしてジャヴェルの上に静かな目付きを向けた。ジャヴェルはなお彼を見つめていた。
七 パリーにてフォーシュルヴァン
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