私は虚無である。私は自ら元老院議員虚無伯と呼ぶ。生まれいずる前に私は存在していたか。否。死後に私は存在するであろうか。否。私は何物であるか。有機的に凝結したわずかの塵《ちり》である。この地上において何をなすべきか。それは選択を要する。すなわち、苦しむべきかもしくは楽しむべきか。ところで、苦しみは私をどこへ導くであろうか。虚無へである。しかし既に苦しんだ後にである。楽しみは私をどこへ導くであろうか。虚無へである。しかし既に楽しんだ後にである。私の選択は定まっているのだ。食《くら》うべきかもしくは食わるべきかの問題だ。私は食う。草たらんよりはむしろ歯たるに如《し》かず。そういうのが私の知恵である。いいですか、その後には墓掘りが控えている。われわれにとっては神廟《しんびょう》が。皆大きな穴の中に落ちこむのである。死。結末《フィニス》。全部の清算。そこが消滅の場所である。死は死しているのである。私に何か言うべき人がそこにいるというのか。考えるだに可笑《おか》しい。乳母《うば》の作り話だ。子供にとってはお化け、大人《おとな》にとってはエホバ。いな。われわれの明日《あす》は夜である。墓のかなたには
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