ィーヌは起き上がって扉の方をながめた。そしてまた倒れた。
 その心持ちは傍《はた》からよく察せられた。しかし彼女はだれの名も言わず、苦情も言わず、だれをも責めなかった。ただ痛ましげに咳《せき》をした。何か暗黒なものが彼女の上にかぶさってくるようだった。彼女はまっさおになり、脣《くちびる》は青くなっていた。時々は微笑《ほほえ》みをもらした。
 五時が鳴った。その時サンプリス修道女は、彼女が低い声で静かに言うのを聞いた。「もう私は明日|逝《い》ってしまうのに、今日きて下さらないのはまちがってるわ。」
 サンプリス修道女の方でも、マドレーヌ氏の遅いのに驚いていた。
 その間にも、ファンティーヌは寝床から空をながめていた。彼女は何かを思い出そうと努めてるらしかった。そして突然、息のような弱い声で歌い出した。サンプリス修道女はそれに耳を傾けた。ファンティーヌが歌ったのは次のようなものだった。

[#ここから4字下げ]
美しいものを買いましょう
市外の通りを歩きつつ。
野菊は青く、薔薇《ばら》はまっかに、
野菊は青く、ほんにかわいい私の児。

昨日私の炉辺にいらせられた
刺繍《ししゅう》のマントの
前へ 次へ
全639ページ中538ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング