え失《う》せ、社会的正義の幻が彼につきまとった。あらゆる仕事から常に輝きに満ちた満足の意をもって帰ってきていた彼は、今や自らおのれを咎めてるもののようであった。時々彼は自分自身に話しかけ、半ば口の中で憂うつな独白をもらした。その独白の一つを、ある晩、彼の妹は聞き取った。「それがかくも恐ろしいものとは私は信じていなかった。人間の法《おきて》に気がつかないほど神の法に専心するのは一つの誤りだ。死は神の手にのみあるものである。いかなる権利をもって人はこの測り知るべからざるものに手を触れるのか?」
 しかし時とともに、それらの印象は薄らぎ、そしておそらく消え失せたであろう。それでも、以来、司教はその刑場を通ることを避けているのが、傍《はた》にもわかった。
 人はいつでも病人やまたは臨終の人の枕辺《まくらべ》にミリエル氏を呼び迎えることができた。彼はそこに自分の最も大なる務めと仕事とがあることを知らなくはなかった。寡婦や孤児の家では、わざわざ頼む必要はなかった。彼は自分できてくれたのである。愛する妻を失った男や子供を失った母親のそばに、彼はすわって長い間黙っていた。彼は黙《もだ》すべき時を知って
前へ 次へ
全639ページ中34ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング