だれにも同じ虚無があるばかりだ。背徳漢サルダナパロスであろうと、聖者ヴァンサン・ド・ポールであろうと、常に同じ無《む》に帰する。それが真実である。ゆえに何よりもまず生きるべし。汝が汝の自己を保つ間、そを用うべし。実際、司教さん、君に重ねて言うが、私には私の哲学がある、私の哲学者たちがある。私は児戯に類した言によっておのれを飾りはしない。もとより下層の者には、乞食や研師《とぎし》や惨《みじ》めな奴《やつ》らには、何かがなくてはならない。彼らには伝説や妄想《もうそう》や霊魂や不死や天国や星などを食わせるがよい。彼らはそれをかみしめる。堅パンの上にふりかける。何物をも有しない者は善良なる神を持つ。まあそれくらいのものだ。私は決してそれに反対はしない。しかし私は自分のためにネージョン氏の説を取っておくのである。善良なる神は民衆にとって善良なのだ。」
司教は手をたたいた。
「よくも言われた!」と彼は叫んだ、「あなたの唯物主義は実にりっぱな、まことに驚くべきものです。だれにでも得らるるものではない。ああそんな主義を会得した暁には、もう欺かるることはないです。愚かにもカトーのように追放さるることもなく、エティエンヌのように石で打たるることもなく、ジャンヌ・ダルクのように生きながら焼かるることもないでしょう。そういうみごとな唯物主義を首尾よく得た者は、責任解除の喜びを得るものです。いかなる地位も、冗官《じょうかん》も、位階も、正当に得られた権利も不当に得られた権利も、利益ある変説も、有利な背反も、都合よい自己弁解も、すべてを安んじて食い得ると思う喜びを得るものです。そして消化を終えて墓の中にはいると思う喜びを得るものです。まことに愉快なことです! 私はそれをあなたに向かって言うのではありませんよ。けれどもあなたに祝意を表わさずにはおれないです。あなた方りっぱな方々は、お言葉のとおりに、御自身のそして御自身のための一つの哲学を持っていられる。美妙で、精巧で、富者ばかりが手にすることができ、いかなるものにもよくきくソースであって、人生の快楽にうまく味をつける哲学です。その哲学は地下深くから取られ、特別な探求者によって掘り出されたものです。しかしあなたはいい方です。善良なる神の信仰は民衆の哲学であることが差しつかえないと言われる、あたかも鵞鳥《がちょう》の栗《くり》料理は貧しい者にとっては七面鳥の松露料理だとでも言うように。」
九 妹の語りたる兄
ディーニュの司教一家の生活状態と、二人の聖《きよ》き婦人がその行為も思想もまた動かされやすい本性まで、司教の指導をまつまでもなく彼の習慣と考えとに従わしていった日常の様とを、おおよそ示さんがためには、バティスティーヌ嬢がその幼な友だちのボアシュヴロン子爵夫人にあてた一通の手紙を、ここに写すに越したことはない。その手紙をわれわれは所有している。
[#地から3字上げ]ディーニュにて、一八――年十二月十六日
[#ここから2字下げ]
子爵夫人さま、一日としてあなたのお噂《うわさ》をせずに過ごしたことはありませぬ。それはほとんど私どもの習慣でもありますが、なお他に一つの理由がありますので。マグロアールが天井や壁のほこりをはらったり洗ったりして、ある発見をいたしたのです。ただ今では、石灰乳で白くぬられた古い壁紙の私どもの二つの室は、お宅のようなりっぱなお住居《すまい》にも比べて恥ずかしからぬほどになりました。マグロアールが壁紙をみなはがしてしまいましたところ、その下にあるものがあったのです。私の客間は、何の道具もなく、ただ洗濯物をひろげるくらいのことに使っていまして、高さ十五尺に縦も横もともに十八尺でありますが、天井はもとから金色に塗られ、桁《けた》はちょうどお宅ののようにこしらえてあります。施療院でありましたころは、布地《きれじ》で蔽《おお》われていたのでした。それからまた、私どもの祖母時代に属する壁板細工もあります。けれども特にお目にかけたいのは、私の居間《いま》なのです。マグロアールが、少なくも十枚ばかりの壁紙の張られていました下に、絵画を見出したのです。いいものではないにしてもかなり見られます。テレマックが馬上にてミネルヴァに迎えらるる所、それからまた彼が庭にいる所など。画家の名はちょっとわかりません。またローマの婦人たちが一夜出歩いてゆく場所。どう申したらよろしいでしょうか、まあ多くのローマの男子や(この所一語読み難し)婦人や、その多くの従者たちがいます。マグロアールがそれらの絵からすっかり塵《ちり》を払ってくれました。そしてこの夏には、室の所々の破損を直し全部を塗りかえるように言っていますので、私の室はまったく博物館のような趣になりますでしょう。彼女はまた納屋の片すみに古風な二つの木
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