、彼の影に枝葉を伸ばさんとするの愚をなすものは一人もなかった。彼の下の役僧や大補祭らは皆善良な老人のみであった。彼らは彼と同じく多少平民的であり、枢機官になる望みもないその教区のうちに籠《こも》り、司教にまったく似寄っていて、ただその差異は、彼らは老衰しており、司教は完成しているというのみだった。ビヤンヴニュ閣下の側《そば》にあっては昇進が不可能であることはだれも明らかに感じたところで、彼から資格を与えられた若い人々も、神学校をいずれば直ちにエークスやオーシュの大司教らに紹介を得て、すみやかに去ってしまうのであった。何となれば、繰り返して言うが、人は引き立てらるることを求むるから。極端なる克己のうちに生きている聖者は、危険なる隣人である。彼は、不治の貧困や、昇進に利ある技能の麻痺《まひ》や、要するに人が欲する以上の解脱を、伝染せしむることがある。かかるところからビヤンヴニュ師の孤立はきたった。吾人の住む社会は暗澹《あんたん》たるものである。成功することこそ、まさに潰《つぶ》れんとする腐敗より一滴また一滴としたたる教えである。
ついでにここに付言したい。成功とは嫌悪すべきことである。真の価値と誤られ易《やす》いその類似は人を惑わす。群衆に対しては、成功はほとんど優越と同じ面影を有する。才能の類似者たる成功は一つの妄信者《もうしんじゃ》を持つ。すなわち歴史である。ただユヴェナリスとタキツスのみがそれに不平をとなえた。今日においては、ほとんど公の哲学が成功の家に住み込み、その奴僕《どぼく》の服をつけ、その控え室の仕事をしている。成功せよ、というが学説である。栄達は能力を仮定する。投機に富を得ればその人はすなわち巧妙な人物となる。勝利者は尊敬せらるる。幸運に生まれよ、そこにすべてがある。幸機を得よ、さらば汝は悉《ことごと》くを得ん。幸福なれ、さらば汝は偉大なりと信ぜられん。時代の精彩たる五、六の偉大なる例外を除けば、同時代の賞賛は近視にすぎない。鍍金《めっき》は純金となる。第一着者であることは、到達者であることを得さえすれば何物をもそこなわない。俗衆は、自らおのれを崇拝しまた俗衆を喝采《かっさい》する一つの年老いたナルシスにすぎない。人をモーゼたらしめ、アイスキロスたらしめ、ダンテたらしめミケランゼロたらしめ、あるいはナポレオンたらしむる巨大なる才能を、群衆は何事によらずその目的に到達せる者に、即座にしかも歓呼してこれを与える。ある公証人が代議士となり、ある似而非《えせ》コルネイユがティリダートを書き、ある宦官《かんがん》が後宮を所有し、陸軍のあるプルュドンムが偶然に一時期を画すべき決定的勝利を得、ある薬種商がサンブル・エ・ムーズの軍隊のためにボール紙の靴底《くつぞこ》を発明し、それを皮として売り出して四十万リーヴルの年金を得、ある行商人が高利貸しの女と結婚して二人の仲に七、八百万の金を出産させ、ある説教者がその鼻声のために司教となり、ある家の執事がその役を止《や》むる頃には大なる富者となって大蔵大臣になされるなど、世人はそれを呼んで天才と言う。あたかも彼らがムスクトンの顔を美なりと称し、クロードの風采《ふうさい》を尊厳なりと称すると同一である。天空の星座と軟《やわら》かき泥地に印するあひるの足跡の星形とを、彼らは混同するのである。
十三 彼の信仰
ローマ正教の見地よりすれば、われわれはディーニュの司教を検校してみるの要を持たない。彼がごとき魂の前においては、われわれはただ尊敬の念を感ずるのみである。正しき人の良心はそのままに信ぜられなければならない。その上、ある種の性質が提出さるる時、われわれは、われわれと異なる信仰の中においても、人間の徳のあらゆる美が発展し得るものであることを認めるのである。
司教は甲の信条についてどう考えていたか、また乙の秘蹟《ひせき》についてどう考えていたであろうか。しかしそのような内心の信念の奥秘は、人の魂があらゆる衣をぬぎすててはいりゆく墳墓によって知らるるのみである。ただ吾人に確かであることは、信仰上の難事に会っても彼はかつてそのために偽善に陥ることがなかったということである。金剛石にはいかなる腐敗もあり得ない。彼はでき得《う》る限り信仰のうちに身を投じ、われ父なる神を信ず[#「われ父なる神を信ず」に傍点]と、しばしば叫んだ。その上、彼はおのれの善行のうちより良心に必要なだけの満足をくみ取り、汝神とともにあり[#「汝神とともにあり」に傍点]と、低くささやく声を自らきいた。
ここにしるさなければならないと思われることは、言わば信仰の外に、そして信仰のかなたに司教が過度の愛を有していたことである。自己主義が衒学癖《げんがくへき》の合言葉となるようなこの悲しき時代の用語を用うれば、彼が「
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