いっしょにプロシアへでも行っちまうがいい[#「いっしょにプロシアへでも行っちまうがいい」に傍点]。」彼はうまく一つの悪口のうちに最もきらいなプロシアとイギリスとをいっしょに言ってのけたのであった。が彼はそういう毒舌をあまりきいたので、ついに自分の地位を失った。かくて妻子をつれて街頭にパンに窮したのである。司教は彼をよんで、穏かに戒《いさ》め、そして大会堂の門番に任じたのであった。
ミリエル氏はその教区のうちにあって、真の牧人《ひつじかい》であり、すべての人の友であった。
九年の間にビヤンヴニュ閣下は、聖《きよ》き行ないと穏かな態度とをもって、優しいそして子の父に対するがごとき一種の尊敬の念をディーニュ市民の心にいだかしめた。ナポレオンに対する彼の態度すら、人民から容認され黙許されたがようであった。彼らは善良な弱い羊の群れであって、彼らの皇帝を崇拝していたが、また彼らの司教を愛していた。
十二 ビヤンヴニュ閣下の孤独
司教のまわりには、あたかも将軍の周囲に少年士官の多数が集まっているように、年少宗教家らの取り巻きが常にある。あのおもしろいサン・フランソア・ド・サールがどこかで「黄口の牧師」と呼んだところのものが、それである。いかなる仕事にも、その志望者があって、すでに到達した人の周囲に集まる。いかなる権威もその取り巻きを有せざるはなく、いかなる幸運もその阿諛者《あゆしゃ》を持たざるはない。未来の成功を目ざす人々は、現在の光栄のまわりに集合する。あらゆる大司教所在地にはその一群の幕僚がある。多少とも勢力のあるあらゆる司教の近くには、紅顔の神学校生徒らの斥候がある。彼らは司教の宮殿内において巡邏《じゅんら》をなし秩序を維持し、司教の微笑を窺《うかが》う。司教の気にいることは、副助祭になるについて既に鐙《あぶみ》に足をかけることである。人は巧みに自分の途を開くことを要する。使徒たらんには、まず役僧たるを厭《いと》ってはならない。
世界に大なる冠があるごとく、教会にも大なる司教の冠がある。宮廷の覚えめでたく、富裕で、収入があり、巧妙で、世間に受けがよく、神に祈ることはもちろん、人に哀願する術をも心得ており、全教区内の人々にひそかに面接することもあまり疚《やま》しく思わず、神事と外交との間の連鎖となり、牧師たるよりはむしろ修道院長たるに適し、司教たるよりはむしろ法王庁内の役人たるに適するがごとき司教らが、すなわちそれである。彼らに近づく人は幸いなるかな! 彼らは勢力を有するがゆえに、自己のまわりに、奔走する者らや贔屓《ひいき》の者らに、彼らを喜ばすことを知れるすべての若き者らに、司教の位を得るに至るまでの間にまず、広き教区や扶持や大補祭の職や教誨師《きょうかいし》の職や大教会堂内の役目などを盛んに与える。自ら位階を経上がりながら、彼らは取り巻き者どもを引き立ててゆく。あたかも行進し行く一の太陽系のようである。彼らの輝きはその従者らに紅の光を投ずる。彼らの栄達はその背後に控ゆる人々に何らかの昇進をまき散らす。保護者の教区が大なれば、従って恩顧を受くる牧師の受け持ち区も大きい。しかして終わりにローマがある。大司教となり得る司教は、更に枢機官となり得る大司教は、汝を随行員として召し連れるであろう、そして汝は宗務院にはいり、汝は肩布を賜わり、やがて汝は聴問官となり、法王の侍従となり、司教となる。司教職と枢機官職との間は一歩にすぎず、更に枢機官職と法王の位との間にはただ徒《いたず》らなる投票があるのみである。頭巾《ずきん》の牧師は皆法王の冠を夢想し得る。今日において普通の順序により王となり得るはただ牧師あるのみである。しかもその王たるや最上の王である。ゆえに神学校なるものはいかに高きへの野心を起させるところなるか! 顔を赤らめる合唱隊の子供のいかに多くが、年わかき法師のいかに多くが、ペルレットの牛乳の壺《つぼ》を頭にいただくことであるか!([#ここから割り注]訳者注 ペルレットとはラ・フォンテーヌの物語中の娘、町に売りにゆく牛乳の代より大なる幸運を夢想し、それに心を奪われて途中牛乳の壺を地上に落としてしまったのである[#ここで割り注終わり])しかして野心は、自らおのれをごまかしながらしかもおそらくはまじめに、いかに恬然《てんぜん》として天職の名を容易に僣することであるか!
ビヤンヴニュ閣下は、謙譲で貧しく独特な性質の人であって、右の大なる司教の冠のうちにはいらなかった。それは彼のまわりに年若い牧師が一人も集まっていないことからでも明らかにわかるのであった。パリーにおいても「彼はうまくやらなかった」ことは、既に述べたとおりである。未来を望む者は一人として、この孤独な老人によって身を立てようと思う者はなかった。野心の芽をもつ者で
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