れ、刑に処せられ、卑賤《ひせん》と醜悪とのうちに余生を終わろうとしている! それでよし。汝は正直な人間となっておれ。市長のままでおり、尊敬すべきまた尊敬せられた人としてとどまり、町を富まし、貧者を養い、孤児を育て、幸福に有徳に人に称賛されて日を過ごせ。そしてその間に、汝がここで喜悦と光明とのうちにある間に、一方には、汝の赤い獄衣をつけ、汚辱のうちに汝の名をにない、徒刑場の中で汝の鎖を引きずってる者がいるだろう。そうだ、うまくでき上がったものだ。惨《みじ》めなる奴《やつ》!」
 彼は額《ひたい》から汗が流れた。彼は荒々しい目つきを二つの燭台の上に据えた。その間にも彼のうちで語る声はやまなかった。声は続けて言った。
「ジャン・ヴァルジャン! 汝の周囲には多くの声あって、大なる響きを立て、大声に語り、汝を頌《たた》えるであろう。それからまただれにも聞こえぬ一つの声あって、暗黒のうちに汝をのろうであろう。いいか、よく聞くがよい、恥知らず奴《め》! すべてそれらの祝福は天に達せぬ前に落ち、神の処までのぼりゆくのはただ一つののろいのみであろう!」
 その声は、初めはきわめて弱く、彼の本心の最も薄暗いすみから起こってきたのであったが、しだいに激しく恐ろしくなり、今では彼の耳にはっきり響いてきた。そして彼のうちから外に出て外部から話しかけてるように思えてきた。彼はその最後の言葉をきわめてはっきり聞いたような気がして、一種の恐怖を感じて室の中を見まわした。
「だれかいるのか。」と彼は自ら惑《うたが》って大声に尋ねた。
 それから彼は白痴に似た笑いを立てた。
「ばかな! だれもいるはずはない。」
 しかしそこにはだれかがいたのである。ただそれは人の目には見えない者であった。
 彼は二つの燭台を暖炉の上に置いた。
 そして彼は再び単調なうち沈んだ歩調で歩き出した。それが、下の室に眠っていた会計係りの男の夢を妨げ突然その眠りをさましたのだった。
 その歩行は彼をやわらげ、また同時に彼を熱狂さした。時とすると危急の場合において人は、あちこちで出会うすべてのものに助言を求めるため方々動き回るものらしい。さてしばらくすると、彼はもはや自分自身がわからなくなってしまった。
 彼は今や、次々に取った二つの決心の前にいずれも同じ恐怖をいだいてたじろいだ。彼に助言を与えた二つの観念は、いずれも同じく凶悪
前へ 次へ
全320ページ中252ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング