のこもった次のみごとな言葉のうちに、慈恵院看護婦の姿を完全に定めた。「修道院としてはただ病舎を、室としては唯一の貸間を、礼拝所としてはただ教区の会堂を、回廊としてはただ町の街路や病舎の広間を、垣根《かきね》としてはただ服従を、鉄門としてはただ神の恐れを、頭被としてはただ謙遜《けんそん》を、彼女らは有するのみならん。」かかる理想はサンプリス修道女のうちに生き上がっていた。だれもサンプリス修道女の年齢を測り得るものはなかった。かつて青春の時代があったとは見えず、また決して老年になるということもなさそうだった。平静で謹厳で冷静で育ちもよくまたかつて嘘《うそ》を言ったことのない人――あえて女とは言うまい――であった。脆弱《ぜいじゃく》に見えるほど穏やかであったが、また花崗石《かこうせき》よりも堅固であった。不幸な者に触るる彼女の指は細く清らかに優しかった。その言葉のうちには、いわば沈黙があるとでも言おうか。必要なことのほかは口をきかず、しかもその声の調子は、懺悔室《ざんげしつ》においては信仰の心を起こさせ、また客間においては人の心を魅するようなものであった。そして優しさは常に粗末な毛織の着物に満足し、荒らい感触によって絶えず天と神とを忘れずにいた。それからなお特に力説しなければならない一事は、決して嘘を言わなかったこと、何らかの利害関係があるなしにかかわらず、真実でないこと、まったくの真実でないことは決して言わなかったこと、それがサンプリス修道女の特質であった。それが彼女の徳の基調であった。彼女はその動かし難い真実をもって会衆のうちに聞こえていた。シカール修道院長もサンプリス修道女のことを聾唖《ろうあ》のマシユーに与える手紙のうちに述べたことである。およそ人はいかに誠実であり公明であり純潔であっても、皆その誠直の上には少なくとも罪なきわずかな虚言の一片くらいは有するものである。が彼女には少しもそれがなかった。わずかな嘘、罪なき嘘、そういうものはいったい有り得るであろうか。嘘をつくということは悪の絶対の形である。あまり嘘はつかないということは有り得ないことである。少しでも嘘を言う人はすべて嘘を言うと同じである。嘘を言うということは悪魔の貌《すがた》である。悪魔は二つの名を持っている、すなわちサタンおよびマンソンジュ([#ここから割り注]訳者注 虚言の意[#ここで割り注終わり]
前へ
次へ
全320ページ中229ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング