てるのである。あの少年の影、というわけではない。あの血の飛沫、というわけでもない。そのようなことを思うほど神経質では、彦一はなかった。事実はそれ自体で完結する、と彼は信じていた。それでも、何かの影のようなものがそこにあって、自然に彼は、肩をそびやかして見廻すのである。反撥の気が眼にこもって、憎悪の念が湧いてくる。
 死神にとっ憑かれたような、あのしょんぼりした姿が、何よりも忌わしいのだった。そしてあれに手をつけたことが、忌わしいのだった。手を洗え。手を洗え。血を流したからではない。
 彼はますますアルコールにしたしむようになった。朝から飲むこともあった。

 そこの、丈高い雑草を押し分けて、しきりに棒で突っついてる男がいた。青いジャケツ、カーキ色の汚れたズボン、なんだか浮浪者めいた姿である。
 彼は背を伸ばし、五十年配の陽やけした顔を挙げ、彦一の方をじろりと見て、軽く会釈をした。田中さんだ。
 狂人、というほどではないが、頭がだいぶおかしいとの評判だった。
 アパート附近の家並の出外れに、荒地があって、その片隅が、塵芥捨場のようになっていた。あちこちからそこへ、塵芥を捨てに来る。塵芥の中には、紙屑や落葉がたくさん交っている。すると、田中さんがやって来て、それに火をつけた。たいてい午後から夕方へかけてだ。塵芥交りの紙屑や落葉は、容易に燃えきらず、いつまでもくすぶっている。田中さんはそれを掻き廻して、丹念に燃やそうとする。そして夕方、薄暗くなると、ふらりと立ち去ってゆく。火はくすぶり続ける。風のある夜など、不用心きわまる。人家に飛び火して大事にならないとも限らない。
 そういうこと、田中さんは一向に平気だ。一日おきぐらいに、必ず火をつける。近所の人々は、不安な眼で眺めながらも半ば気が狂ってる人だというので、注意を促がす者もない。
 或る時、彦一は酒に酔っていた気紛れに、田中さんが火を燃やしてるのを見て、側へ行って一緒に燃やした。二人とも黙っていたが、時々、顔を見合して頬笑んだ。別れる時、互いに軽く会釈をした。
 それから、二人は道で出逢うと、会釈し合うようになった。なんとなく親しみが出来てきたのである。
 一本松の近くの雑草の中の田中さんは、ひどく淋しそうに見えた。彦一は立ち止って声をかけた。
「何をなすってるんですか。」
 田中さんは無表情な顔で答えた。
「探してるんです。」
 彦一も草の中にはいっていった。
「落し物ですか。」
 田中さんは棒で地面を突っついた。
「この辺にある筈だが……。」
 そしてなおあちこち突っついて、呟いた。
「分らん。」
 諦めたように、草の中にしゃがんで、尻を落ちつけてしまった。
 彦一もそこに屈みこんだ。雑草は丈高く、薄荷の匂いがして、世間から遮断された感じで、空が青く高い。
 田中さんは彦一の方へ眼を向けず、誰に言うのか分らない調子で言った。
「たいへん立派な、石の燈籠が、この辺にあって、地面に埋ってる筈です。その恰好といい、苔のつき工合といい、なかなか、ほかでは見られません。」
「地面に埋ってるんですか。」
「誰も盗んでいった者はない。私だけが知ってることです。」
「それじゃあ[#「それじゃあ」は底本では「それじやあ」]、空襲前には、あなたはここに住んでたんですか。」
「住んではいなかったが、私だけが知ってることで、誰にも分りゃしません。」
 それきり、話が途切れた。田中さんは煙草を取り出し、彦一にも一本すすめた。
 その煙草を、半分ばかり吸ってるうちに、彦一は突然、吐き出すように言い出した。
「あの一本松の、葦の茂みの中に、中華ソバ屋の小僧が、殺されていましたね。」
 草の中からは、松だけしか見えなかった。
「石で頭を打ち割られていましたね。」
 田中さんはただ頷いてみせた。
「誰があんなことをしたか、御存じですか。いや、あなたに分る筈はない。警察にも分ってはいない。だが、私は知ってるんですよ。私だけが知ってるんです。なぜなら、私がしたんですから。」
「ほう、あなたがね。」
 無関心らしい返事だった。
 彦一は腹が立った。田中さんの顔を、殴りつけるように見つめた。
「あすこに、あの小僧が立っていたんです。死神にとっ憑かれて、ぶら下ったみたいにふらりと立って、もう半分死んでいたんです。だから、私は、そいつを張り倒して、頭を石でぶち割ってやったんです。どう思いますか。」
「そりゃあ素敵だ。」
「え、素敵だというのは……。」
「とにかく、素敵だ。」
 言葉の調子には何の感動もなく、田中さんは淡々と独り頷いてるだけだった。
「ばかにしてはいけません。私がしたんですよ。」
「素敵だ。」
 彦一の方へは眼も向けず、一本松の方も振り向かず、草の茂みごしに遠くをぼんやり眺めている。事柄を理解していないのではないかとも疑えるし、前から知っていたのではないかとも疑えた。
 然し、その時、彦一ははっと気付いたのである。あのことについて、聊かの罪悪をも彼は感じなかったし、今でも感じてはいない。だが、なにか、ものの影がさしてきたのだ。何ものの影であろうか。得体の知れないその影が、あの現場に立ち罩めているし、それが彼の上にまで覆い被さってくるようだった。
 彼は田中さんを見つめながら言った。
「私の言葉を信じて下さらなければいけません。あれはまったく、私がしたことです。私自身が手を下したのです。その証拠には、あの死体が横たわっていた、一本松の葦の茂みのほとりに、何ものとも知れない暗い影を私は感ずるし、それが私の上にまで被さってくる。こんなことは、当の本人でなければ分るものではない。ね、そうでしょう。勿論私は、罪悪を感じたり、自責の念を覚えたりはしません。彼奴が悪いのだ。」
「そうだ、先方が悪い。」
「然し、なにか影がさしてくる……。」
「そんなもの、焼き捨てればいい。」
「焼き捨てる……。」
 彦一は夢からさめたかのように、ふと苦笑を浮べた。
「紙屑みたいにはいきませんよ。」
「いや、紙屑だって容易じゃない。」
「だから、どうなんです。」
「焼き捨てるのさ。」
 彦一はまた腹が立ってきた。いい加減、狂人のなぶり者になってるような感じだ。
 彼は黙って立ち上り、挨拶もせずに歩き去った。田中さんは草の中にしゃがみこんだまま、空を仰ぎ見ていた。

 翌日の払暁、一本松の葦のほとりに火の手があがった。もとより、その辺に人家はないから火災ではない。然し火先や煙の勢が大きく、ただの焚火とも見えないので、近くの人々が行ってみると、田中さんが葦の茂みを焼いているのだった。木炭の空俵や、藁束や、新聞紙などを、夥しく積み上げて、それに火をつけ、その火種をあちこちに投げ散らして、葦を焼いてるのだ。葦はまだ霜枯れておらず、容易に燃えないのを、田中さんは懸命に燃やそうとしている。
 集まってきた人々は驚いて、田中さんを制止しようとしたが、なかなか言うことをきかなかった。衆人を全く無視した態度で、そして凄い形相で、黙々として火を燃やし続けてるのである。
 その朝、彦一は珍らしく早く眼を覚した。彼の職業は保険会社の外交員で、時には小さな劇場の演出を手伝い、また稀に詩を書いていた。詩作は一文にもならず、芝居の方からは僅少な不時の収入があり、生活は主として外交員の仕事で立てていたが、彼にとっての重要さは、全くその逆だった。保険会社の外交員ほど下らない職業はないと思って、その職業を選んだのである。随って、仕事に勤勉でも忠実でもなかった。朝は遅くまで寝ていた。
 ところがその朝、なにか気にかかる心地がしたし、室外の空気にざわめきが感ぜられたので、寝床の中に落着けず、起き上ってみた。そして田中さんの一件を知った。
 彼は服装をととのえるとすぐ、一本松のところへ駆けつけた。
 田中さんは衆人にかこまれながら、燃え上る炭俵を見つめていた。一人の警官が、その手を押えていた。
 田中さんは大きな声で叫んだ。
「ここで、何事が起ったか、私は知ってる。」
 ちょっと息をついた。
「亡霊の影が出ることも、私は知ってる。」
 またちょっと息をついた。
「葦なんか茂らしておくからだ。」
 警官をちらと見た。
「警察の怠慢だ。だから私が、葦を焼き捨ててやるのだ。」
 彼はあたりをぐるりと見廻した。そして彦一の顔に眼をとめた。
「うむ、丁度よく来たな。あとは君が焼くんだ。」
 そして彼は安心したのか、もうけろりとした表情で、警官から導かれるまま、近くの警察派出所へおとなしくついて行った。
 数名の人々が後に続き、彦一も一番後からついて行った。
 派出所の中で、彼は前と同じようなことを数言怒鳴った。それきりで、もう口を利かなかった。彦一の方は見向きもしなかった。
 彼の身内の者らしい若い男と、町内の有力者らしい老人とが、警官にしきりと何やら釈明していた。一通りの調書を取られて、彼はその二人に守られ、先に立ってすたすた歩み去った。
 別に危険な狂人というわけではなかったのだ。家庭も裕福な方で、彼は謂わば隠居の身の上だった。
 事はそれで済んだ。葦の茂みのそばの燃やし火も直ちに消し止められていた。
 然し、田中さんは拘禁されてるわけではなく、葦はまだ茂っており、いつどういうことが起るか分らなかった。不安な空気が漂っていた。それで、警官や有力者の肝入りで、葦の茂みのある土地の所有者と談合の上、葦はすっかり刈り取られることになった。
 松の古木一本だけで、その下の方に、浅い泥沼が広がり、さっぱりした土地になった。
 少年の怪死事件は、いろんな謎を秘めて、未解決のまま残された。
 おれはまだ自由を欲する、と彦一は胸中で叫んだ。そして間もなく、遠くへ移転して行った。
 ――彦一については、まだ後日物語がある。田中さんについても、後日物語がある。然し、二人が別れ別れになってしまった以上、この物語も一応ここで終止符を打つべきであろう。



底本:「豊島与志雄著作集 第五巻(小説5[#「5」はローマ数字、1−13−25]・戯曲)」未来社
   1966(昭和41)年11月15日第1刷発行
初出:「心」
   1952(昭和27)年1月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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