ものの影
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)横※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]
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池、といっても、台地の裾から湧き出る水がただ広くたまってる浅い沼で、その片側、道路ぞいに、丈高い葦が生い茂り、中ほどに、大きな松が一本そびえている。そのへんを、俗に一本松と呼ばれていて、昼間は田舎びた風情があり、夜分はちと薄気味わるい。
この一本松のところを、或る夜遅く、島野彦一は通りかかった。焼酎にしたたか酔って、頭脳はからっぽ、足は宙に浮きがちだった。微風もなく、夜気は冴えていた。
松の近くまで来て、彦一ははたと足を止めた。なにか、妖気に触れたかのような感じである。
道路からそれて、葦の茂みの中に、いや、茂みの表面に、和服姿の少年らしい人影が立っていた。月の光りはないが、星明りなのか、透いて見える薄暗がりに、その人影がくっきり浮いていた。彼は、彦一がやって来るのを認め、道を避けて佇み、通りすぎるのを待ってるのか、或るいは、出会いがしらに、ひょいと横へ退いたのか。それはとにかく、足音一つせず、葦の葉擦れの音もしなかった。葦の茂みはひそと静まり返っていて、その表面に、人影だけが、何の厚みもなく、紙のように平べったく、浮き出してるのである。
とっさに、彦一はぞっとした。鬼気とか、妖気とか、もののけとか、そんなものに触れた感じだ。彼は戦時中、召集されて、北海道で軍隊生活をし、訓練の間には、深山幽谷で孤立した数時間を闇夜のうちに過したこともあるが、嘗て、ぞっとする不気味さを経験したことはなかった。恐怖とか驚駭ならば、まだよいが、へんな不気味さは、どうにもいけない。而もそれが、沼だの葦の茂みだの空襲の焼跡だのがあるにしても、近くに人家が見える東京都内で起ったのだ。
不気味なのは、その人影が、なまの人間の姿とは見えないことだった。さりとて、幻燈で映し出された像でもない。影の微粒子が寄り集まり凝り固まって、謂わば死気に生きてるのだ。葦の茂みの中を動き廻っても、葉擦れの音さえ立てないだろう。
酩酊の気魄を眼にこめて、彦一はじっと見つめた。少年の人影は、うつろな眼をこちらに向けてるらしいだけで、身じろぎだにしなかった。死気とも言えるものを、彦一はまともに感じた。一瞬、不気味さが憤りに変った。彼は一歩踏み出した。相手は小揺ぎもしない。彼はまた一歩踏み出し、同時に、拳固の一撃を相手の横※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]に喰わした。
彦一にとって意外だったのは、たしかに手応えがあったことだ。相手は人影でもなく、死気でもなく、なまの肉体の重みでばったり倒れ[#「倒れ」は底本では「例れ」]、葦の茂みがざわざわ揺れた。夜気が渦巻き、総毛立って、それから冷りと静まる。張り合いのない真剣さだ。何物へともない、憤怒、そして憎悪……。
彦一は靴の足先に、堅い重いものを意識した。土瓶大の石塊だ。それを彼は両手に取り上げ、地面に伸びてるものに向って、力一杯投げつけた。穢らわしい感じの、鈍い音がした。
ざまあ見やがれ。吐き捨てるような思いだった。歩き出して、ふと空を仰ぐと、星々が燃えるように光っていた。
それから彼は、明るい街路に出て、屋台店でまた焼酎をあおった。アパートの室に帰りついたのは、深夜だった。
翌日の夕刊から次の日の朝刊にかけた新聞に、一本松の事件が簡単に報道されていた。大きく取扱われるほどのものではなかったが、少年の怪死体として、多くの謎を含んだ記事になっていた。
通称一本松と言われてる路傍の葦の茂みの中に、少年の死体が発見された。縊死する旨の遺書と、縊死に用ゆるつもりだったらしい細紐とが、懐にはいっていた。遺書は彼の自筆であり、細紐は彼の寝間着紐だった。然るに、死体には致命傷と見られる頭蓋骨折があり、そばに血まみれの人頭大の石が落ちていた。なお、左※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]下に打撲傷も見られた。明らかに他殺らしい。それにしても、格闘の形跡もなく、物取りの仕業とも思われなかった。
この少年は、一キロほど離れたところに中華ソバを営んでる伯父夫婦の、店の手伝いをしていた。少しく低脳、そして浪費癖があった。店の現金を持ち出しては、始終叱られていた。最近では、茨城県下の農家へ追いやられるとかの話があって、それを苦にしての自殺覚悟だったらしい。
だいたい右のような記事で、真相は明らかでなく、どの新聞のも大同小異である。
その記事の一つを、島野彦一はふと見つけた。そして各新聞を熱心に読みあさった。アパートにはいろんな新聞がはいっている。それらを彼は、監理人のおばさんの室へ行って借りて読んだ。ふだんは、自分のところへ来る一つの新聞さえろくに覗かない彼である。
おばさんは眉をひそめて言った。
「たいへん御熱心ね。」
「この近くに起った事件ですよ。」
「自殺でしょうか、それとも、他殺でしょうか。島野さんはどう思いますの。」
「それが、問題です。まあ、自分で死のうと思っていたのに、気後れがして、他人から手伝って貰って死んだ、というところでしょうか。」
彦一は平然と、多少皮肉な微笑さえ浮べて、自分の見解を披瀝するのだった。
あの少年は、少しく低能でそして浪費癖があったという。だいたい、低脳な者は大食いだし、随って浪費癖はつきものだ。彼もまた、店の中華ソバばかりでは食い足りなくて、金を持ち出しては買い食いをする。その揚句、農村へ追いやられる話まで起って、これが大打撃となった。農村の労働と、そして粗食を、彼は知ってた筈だ。それからまだ、新聞記者が探り出さない事柄もあったに違いない。伯父夫婦も私生活については余り語りたがらなかったろう。とにかく、いろいろな原因が重って少年は死ぬ気になった。
なにか衝撃を受けて、一時にかっと逆せ上り、やけくそに自殺する、そんなんじゃない。病人が次第に衰弱してゆくように、気力がじわじわ衰えて、いつしか死ぬ気になった。これが重大な点だ。立ち枯れする樹木と同じだ。こんな奴は、自殺しなくとも、どうせ死ぬ。
あの一本松の沼のほとりに、彼は子供たちに交って、魚釣りなどにも出かけたに違いない。子鮒とか泥鰌とか、ろくなものはいないだろうが、大食いの懶け者には、手頃な時間つぶしだ。そして松の枝ぶりなどを眺めた。その枝ぶりが、愚かな頭の中に残っていて、首を縊ってぶら下るのに恰好だなどと、ぼんやり考えたのだろう。そして夜遅く、寝間着紐なんか懐に入れて、ふらりと出かけたんだ。自殺の決心とか覚悟とか、そんな気の利いたものがあるものか。遺書とかいうものも、きっといい加減なものだろう……。
聞いていて、おばさんは、こんどは頬笑んだ。
「島野さん、まるで、小説家みたいね。」
だが、そこに居合せた中年の止宿人は、不快そうな面持ちで、口を出した。
「然し、問題は、そんなことではなく、自殺か他殺かという点にあるんでしょう。」
彦一は強い視線を相手に向けた。
「勿論、他殺でしょう。彼は死神にとっ憑かれたように、ぼんやりつっ立ってたんですよ。覚悟したわけでもなく、ただなんとなく死ぬ気でいる。いや、もう死んでたと言ってもいい。はっきりした自意識もなく、ただ、死ぬ気持ち……死気とでも言ったらいいでしょうか、その、死気に包まれて、暗がりにつっ立っていたんです。これは、不気味だとばかりは言えますまい。そんな奴に出合ったら、誰だって張り倒してやりたくなるに違いない。僕だってそうしますね。」
「それにしても、石で頭を打ち割るなんて、どういうもんですかね。」
「それは、時のはずみでしょう。」
「いくら時のはずみにしても、少し残酷すぎはしませんか。前から怨みでも含んでおればとにかく……。あなたの説によれば、犯人はただ通りがかりの者にすぎないことになりますね。」
「そうです。」
「すると、あの少年は、張り倒されたとたんに、自分から頭を石にぶっつけたとも見られますね。それも、倒れるはずみにですよ。そうすると、他殺とは言えませんね。」
「いや、僕は他殺説を執ります。」
彦一は言い切って、不快そうに口を噤んでしまった。
新聞の報道はだいたい二回きりで、途切れた。詳報も結論もなく、潮が引いたような工合で、空白な浜地だけが残った。その浜地に、彦一は身を曝してる感じがした。
潮が引けば、貝は口を閉じる。彦一も口を閉じて、一本松事件に触れることを避けた。
不用意に、ずいぶん危険な行動をしてきたものである。アパートに来るいろんな新聞をあさり読むばかりか、際どいことまで公言してしまった。単に好奇心からの推理だけだとは言えないものがあった。彼の表情を注視する者があったら、何等かの疑念を懐かないとは限らなかった。
捜査の手は伸びてるに違いなかった。少年の身元も詳しく洗われたことだろう。死体は解剖に附されたろう。そしてあの石には、彦一の指紋が残ってた筈だ。何か些細な遺留品でもありはしなかったろうか。あの時のことを瞥見した人目はなかったであろうか。
あの夜、彦一はしたたか酔っていた。その上にまた飲んだ。酔ってるのは珍らしくないとしても、あの夜は少しひどすぎた。そして深夜の帰宅。どこをどう歩き廻ったのか、自分でもよく覚えていなかった。アリバイは困難だろう。
然し、彦一自身は、冷静に反省してみても、あのことに対してさほど自責の念を覚えてるわけではなかった。
あれは、殺人ではない、と彼は感じた。また、彼は自殺幇助を罪悪だとは認めなかったが、あれは自殺幇助でさえもない、と彼は感じた。それならば、あれはいったい何だったのか。忌わしいものに対する嫌悪、憎悪、それだけではなかったか。そして、そういう感情も、それに伴う半無意識な行動も、人間に許されてる正当な権利ではないか。
そうしたことのために、逮捕され、そして投獄されるのは、実にばかげてる。用心しなければいけないぞ、と彼は自分に言いきかした。
刑務所生活というものは、先ず何よりも、自由の拘束として彼の眼に映じた。贖罪とか悔悛とか、そのようなものではなく、ただ具体的に自由の拘束なのだ。なんとしても忌避すべきだ、と彼は思った。
ところが、他方、彼はひどく当惑した。口を噤めば噤むほど、あのことを公言してみたい欲望が起ってきた。自分一人だけが知ってることだ。自分一人だけが感じたことだ。それをなぜ言ってはいけないのか。誰にも告げずに、胸中に秘めて、永久に密閉しておかなければならないのか。ミダス王の理髪師の悩みを、彼は思った。口外出来ないということも、それ自体、具体的に自由の拘束なのだ。
右にも左にも、自由はなかった。眼隠しをして、真直に歩くより外はなかった。そしてあの一本松のあたりが却って、何の気兼ねもない気安いものに思われた。
はじめのうち、彼はその道を通るのは避けた。然しそこは、彼のアパートから国鉄電車の駅に出る近道だった。わざと迂回するのは、もし彼に目をつけてる者があるとすれば、疑念を招く種になるだろう。また、そこでこそ、彼は天に向って、地に向って、真実のことを囁き得るのである。
そこに、あの石が転がっていたのだ。石に血痕が附着していたというのは、たぶん本当のことだろう。更に一層本当のことは、石には彼の手証が印せられていた筈だ。
松の古木は、横へ低く枝をひろげている。葦の茂みは、風にそよいでいる。路面には草が生えて、雨水の流れ跡も見える。あたりは菜園や雑草地で、人家はだいぶ距たり、その彼方に、工場の煙筒が黒い煙を吐いている。
夢のようだった。だが、呪縛された夢の感じだった。彦一は肩をそびやかし、意識的に歩調をゆるめた。
おい、ほんとに此処だったのか。
何かに呼びかける気持ちで、そして見廻すと、胸がむかついてくる。
夜分は殊にいけなかった。そこを通りかかる前に、彼は焼酎をあおっていた。
何かの影が、そのへんに立ち罩め
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