悪だとは認めなかったが、あれは自殺幇助でさえもない、と彼は感じた。それならば、あれはいったい何だったのか。忌わしいものに対する嫌悪、憎悪、それだけではなかったか。そして、そういう感情も、それに伴う半無意識な行動も、人間に許されてる正当な権利ではないか。
そうしたことのために、逮捕され、そして投獄されるのは、実にばかげてる。用心しなければいけないぞ、と彼は自分に言いきかした。
刑務所生活というものは、先ず何よりも、自由の拘束として彼の眼に映じた。贖罪とか悔悛とか、そのようなものではなく、ただ具体的に自由の拘束なのだ。なんとしても忌避すべきだ、と彼は思った。
ところが、他方、彼はひどく当惑した。口を噤めば噤むほど、あのことを公言してみたい欲望が起ってきた。自分一人だけが知ってることだ。自分一人だけが感じたことだ。それをなぜ言ってはいけないのか。誰にも告げずに、胸中に秘めて、永久に密閉しておかなければならないのか。ミダス王の理髪師の悩みを、彼は思った。口外出来ないということも、それ自体、具体的に自由の拘束なのだ。
右にも左にも、自由はなかった。眼隠しをして、真直に歩くより外はなかった。そしてあの一本松のあたりが却って、何の気兼ねもない気安いものに思われた。
はじめのうち、彼はその道を通るのは避けた。然しそこは、彼のアパートから国鉄電車の駅に出る近道だった。わざと迂回するのは、もし彼に目をつけてる者があるとすれば、疑念を招く種になるだろう。また、そこでこそ、彼は天に向って、地に向って、真実のことを囁き得るのである。
そこに、あの石が転がっていたのだ。石に血痕が附着していたというのは、たぶん本当のことだろう。更に一層本当のことは、石には彼の手証が印せられていた筈だ。
松の古木は、横へ低く枝をひろげている。葦の茂みは、風にそよいでいる。路面には草が生えて、雨水の流れ跡も見える。あたりは菜園や雑草地で、人家はだいぶ距たり、その彼方に、工場の煙筒が黒い煙を吐いている。
夢のようだった。だが、呪縛された夢の感じだった。彦一は肩をそびやかし、意識的に歩調をゆるめた。
おい、ほんとに此処だったのか。
何かに呼びかける気持ちで、そして見廻すと、胸がむかついてくる。
夜分は殊にいけなかった。そこを通りかかる前に、彼は焼酎をあおっていた。
何かの影が、そのへんに立ち罩め
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