なかった。
 掛時計が十一時を打つと、周さんの同国人は立ち上り、周さんと短い言葉を交わして、帰っていった。
「さあ、あらためて飲みましょう。今晩はつきあって下さいよ。それより、先ず、話を聞いて下さい。」
 周さんはいろいろな料理を持ち出した。ありったけの御馳走と言ってもよかった。俺はもう食べられなかった。その代り、濁酒をたくさん飲んだ。周さんはよく食いよく飲んだ。酔っ払って、二人とも、話はしどろもどろだったが……。
 千代乃はほんとに死んでいた。家から逃げ出すとたんに、追っかけられて捕っては危いと思いつめたものか、かねて所持していた毒薬を呑み下し、そして駆け出したが、あの焼跡のあたり、俺が彼女に逢ったあの辺で、もう毒が廻って苦悶し、雑草の中にぶっ倒れて、息が切れたのだ、と想像される。
 早朝に発見されたその死体は、やがて解剖されたが、死因は毒薬以外には何もなかった。
「わたしが千代乃に逢ったのも、あの辺でした。」と周さんは言った。
「通りかかると、誰か、影のようにぼんやり立っている。それが千代乃です。一度は闇の中で、一度は霧の中でした。思いが残ったに違いありません。」
 千代乃は周伍文
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